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(4月1日)関西電力出資で北陸新幹線小浜ルートがルート決定、着工へ [鉄道]
前田武志国土交通大臣は4月1日、新スキームでの北陸新幹線の全線着工計画を発表した。整備新幹線の新規着工決定は昨年の金沢・敦賀間に次ぐものとなった。ルートは小浜・亀岡を経由して新大阪に直結する小浜ルート案に決定しつつも、米原ルートも放棄されることはなく、ほどなく建設される計画である。
以前から北陸新幹線の敦賀以南のルートは米原ルート、湖西ルート(含む湖西線フリーゲージトレイン案)、若狭ルート案の三案に分かれ、整備新幹線の中で唯一、ルートが決まっていなかった。東海道新幹線のバイパスとしては若狭案が最も優れ、地域開発に貢献する度合いも大きいが、新線の距離の長さに伴う建設費の大きさが、北陸から中京東海地域へのアクセスに難がある点と並んで課題となっていた。
前田大臣の前任の大畠大臣は東日本大震災の教訓として、大震災発生時の国土の代替バイパスルートの建設促進を表明し、旧建設省技官出身の前田氏もその方針を踏襲する模様だ。東南海・南海地震発生時に従来の東海道新幹線は使用不可能となることは明白であり、北陸新幹線のルート選択においても、当該地震の影響の大きい米原ルートは回避された模様だ。
今回のスキームの最大のポイントが、沿線に原発を保有する電力会社が建設費の過半の5000億円を支出し、当該区間の線路を並行在来線と共に保有する第三セクターの大株主となる点にある。議決権を持つ普通株と持たない優先株、転換社債の比率については、今後の検討課題とした。
関西電力の出資分が最も多く3000億円、中部電力が1000億円、北陸電力と電源開発が500億円ずつを支出する計画だ。現在、関西電力は原発の再稼働を行なわない場合、火力発電の燃料費で年間約2000億円の追加支出を余儀なくされているが、大きな負担となっている。今回の資金を支出しても、原発を動かせない場合のコストに比べれば安いものなのだ。
鉄道アナリストの川島令三氏はこう指摘する。
「以前から関西電力は福井県に対して原発立地の見返りとして、小浜線の電化や県内の老朽化した交直流車両の代替車両の費用を負担するなどことをしてきました。今回の決定には驚きません。」
福井県内の原発再稼働の条件として福井県・滋賀県・京都府知事と綿密が打ち合わせが行なわれた結果と見られる。
関西電力の原発再稼働に反対してきた大阪維新の会は今回の決定を歓迎する構えだ。松井一郎大阪府知事はこう語る。
「従来、北陸地方は東京より関西と大きな地域的つながりを持ってきたが、東京一極集中の影響で、そのつながりは細ってしまっている。再来年度に北陸新幹線が金沢まで通じれば、金沢からの東京と大阪の時間距離が同じ二時間半になってしまう。大阪の地位低下は進む。」
政界事情通の間では、今回の決定を民主自民の大連立の動きの一貫と見る。
「福井県は前回の総選挙で高知県と並んで唯一、小選挙区で自民党が全勝した県です。そこに何とかして民主党も食い込みたい。その動きは昨年の敦賀着工決定にも見られましたが、今回で露骨になりました。今回のルートの沿線には、京都北部の自民党の谷垣総裁の選挙区も含まれますし、京都市を地盤とする民主党の前原政調会長との間で何らかの意見に一致が得られたのでしょう。」
以前から北陸新幹線の敦賀以南のルートは米原ルート、湖西ルート(含む湖西線フリーゲージトレイン案)、若狭ルート案の三案に分かれ、整備新幹線の中で唯一、ルートが決まっていなかった。東海道新幹線のバイパスとしては若狭案が最も優れ、地域開発に貢献する度合いも大きいが、新線の距離の長さに伴う建設費の大きさが、北陸から中京東海地域へのアクセスに難がある点と並んで課題となっていた。
前田大臣の前任の大畠大臣は東日本大震災の教訓として、大震災発生時の国土の代替バイパスルートの建設促進を表明し、旧建設省技官出身の前田氏もその方針を踏襲する模様だ。東南海・南海地震発生時に従来の東海道新幹線は使用不可能となることは明白であり、北陸新幹線のルート選択においても、当該地震の影響の大きい米原ルートは回避された模様だ。
今回のスキームの最大のポイントが、沿線に原発を保有する電力会社が建設費の過半の5000億円を支出し、当該区間の線路を並行在来線と共に保有する第三セクターの大株主となる点にある。議決権を持つ普通株と持たない優先株、転換社債の比率については、今後の検討課題とした。
関西電力の出資分が最も多く3000億円、中部電力が1000億円、北陸電力と電源開発が500億円ずつを支出する計画だ。現在、関西電力は原発の再稼働を行なわない場合、火力発電の燃料費で年間約2000億円の追加支出を余儀なくされているが、大きな負担となっている。今回の資金を支出しても、原発を動かせない場合のコストに比べれば安いものなのだ。
鉄道アナリストの川島令三氏はこう指摘する。
「以前から関西電力は福井県に対して原発立地の見返りとして、小浜線の電化や県内の老朽化した交直流車両の代替車両の費用を負担するなどことをしてきました。今回の決定には驚きません。」
福井県内の原発再稼働の条件として福井県・滋賀県・京都府知事と綿密が打ち合わせが行なわれた結果と見られる。
関西電力の原発再稼働に反対してきた大阪維新の会は今回の決定を歓迎する構えだ。松井一郎大阪府知事はこう語る。
「従来、北陸地方は東京より関西と大きな地域的つながりを持ってきたが、東京一極集中の影響で、そのつながりは細ってしまっている。再来年度に北陸新幹線が金沢まで通じれば、金沢からの東京と大阪の時間距離が同じ二時間半になってしまう。大阪の地位低下は進む。」
政界事情通の間では、今回の決定を民主自民の大連立の動きの一貫と見る。
「福井県は前回の総選挙で高知県と並んで唯一、小選挙区で自民党が全勝した県です。そこに何とかして民主党も食い込みたい。その動きは昨年の敦賀着工決定にも見られましたが、今回で露骨になりました。今回のルートの沿線には、京都北部の自民党の谷垣総裁の選挙区も含まれますし、京都市を地盤とする民主党の前原政調会長との間で何らかの意見に一致が得られたのでしょう。」
民主党議員の政党遍歴パターン [政治]
しばしば民主党に対して、自民党関係者・支持者から
「民主党は寄せ集めの党」
「政界渡り鳥だらけ」
という、罵倒に近い評価が下されていることがある。また
「社会党出身者が勢力を持っていることが最大の癌」
という評価も2ちゃんねるあたりでは常識化している。
だが、これらの評価は妥当なのだろうか。
そもそも、自民党のように確固とした政党が不変に存在していたなら、そこから出たり入ったりした人間がマイナス評価を受けるのは当然である。例えば石破茂や茂木、小池百合子あたりである。だが、政治生活の根拠地と思っていた政党が新進党や自由党のように突然なくなったり、新党さきがけや社民党(第一次橋本内閣で連立を組んでいた1996年初頭に政党名を変更した)のように、1996年の総選挙を前にして結成された旧民主党に多くの議員が離党して詰めかけてしまい、抜け殻のようになった元の党に残ることが諸事情から困難となり、大勢の赴くところに従ったものまで、節操のない政界渡り鳥と言えるだろうか。
また、派閥化しつつある諸グループに属する民主党の諸議員の政治行動の原理の観察を困難にしている最大の理由の一つとして、「本籍と現住所」の問題がある。いわゆる横路グループ(今の領袖は、衆議院議長として党派的行動の取れない横路孝弘ではなく、輿石東だろうが、なぜか輿石グループとは言わない)は旧社会党、民社協会は旧民社党などと、過去の政党歴(本籍)と現在の派閥(現住所)が一致している場合は良いが、1990年代の政界再編前後から当選回数を重ねた大臣クラスのけっこう有力な議員ほど、履歴から予想される今の所属派閥が意外なのだ。
例えばキャミソール事件で短命大臣に終わった荒井聡は農水省官僚出身で北海道庁に出向して横路知事の側近だったはずだが、1993年の選挙後に日本新党に所属して、2aで後述の政治履歴を経て、横路グループではなく菅グループの幹部である。大畠前国土交通大臣(その前に3ヶ月だけ経済産業大臣もしている)は土井たか子ブームで1990年の総選挙で大躍進した社会党から大量に初当選した土井チルドレンの一人である。民主党結成以来、鳩山グループの幹部となり、鳩山の首相在任中は派閥の留守を預かって会長まで務めたが、菅降ろしのゴタゴタの中で鳩山に愛想をつかして鹿野グループの結成にはせ参じた。仙石由人も1990年初当選の社会党新人だったが、なぜか民主党では前原グループの顧問格ないし、蔭の支配者となっている。
以上のような問題を整理するためには、党内の大勢を占める側から順に、政党履歴をグループ分けすることが有意であろうと考える。もちろんこれは各政治家の行動を道義的に価値判断するものではない。そういう判断をする時の基礎情報を提供するためである。ウィキペディアの各項目や政治家自らが説明する履歴を読めば、分かる人は分かるのだが、1990年代の政党変遷を正確に理解していないことには、読解困難な書き方も多い。そもそも一般人にとって1990年代の政界再編期は忘れられたほとんど謎の存在である。
○村山・橋本内閣で与党
(1) 旧社会党→旧民主党→現在
社会党の1990年初当選組はこのパターンである。多くは今も社会党時代の結びつきを保って横路グループに属するが、先述の大畠や筒井信孝農水副大臣、斉藤勁官房副長官ら現住所はそうでないものもいる。現在の領袖である輿石の他、社会党の「お粗末書記長」、鳩山内閣の「お粗末農水大臣」たる赤松、同和・福岡空港利権の松本龍(環境大臣としては有能だったらしい)、「死の街」「放射能をつけてやる」の鉢路前経済産業大臣、反日国家公安委員長と言われて4ヶ月で大臣を辞めた岡崎トミ子、前述の人物らが属する。こう書くと、確かにネット右翼が攻撃する理由が分かってしまう。そこまで非難すべきとも思えないが。
民主党では本来は人数で圧倒的に最大勢力だったのだが、党の主要ポストは新党さきがけ組に野党時代から取られ、社会党時代からの議員が次々に引退していくなか、それほど現在の勢力は大きくない。
注意しなければならないのは、領袖の横路自身は村山内閣の段階に於いては与党の立場でなかったということである。1969年に社会党のプリンスとして28歳で初当選したが、1983年から95年まで北海道知事を務め、旧民主党結党の中心となって1996年に衆議院に返り咲くまで一年ほど浪人期間(これは2期目を落選して1993年から96年まで浪人していた仙石も事情が似ている)がある。若き「革新知事」(今や死語)として当選しながらも、道民党を主張したのは政略であり、一貫して自民党抜きの政権交代を追究し、自民党を政権の座に引き戻した自社さ連立のあり方を批判した。中央政界で浦島太郎だとして、当時のいしいひさいちの政界マンガでは徹底的に諷刺の対象となっている。
横路は中央政界復帰に当たって知事の後継者としては、新進党後援で側近の副知事の堀達也を立て、村山内閣の自社さ連立を象徴する存在として立候補した1990年社会党初当選組の伊東秀子(2007年の参議院比例区の繰り上げ名簿に掲載されており、現在は国民新党に属する)と争った。この時は横路後継阻止のために自社さ側から鳩山由紀夫を知事候補に擁立する動きもあり、極めてねじれた選挙戦であった。
(2) (自民党→)新党さきがけ→旧民主党→現在
自民党を批判して離党したが、当時の小沢のような新自由主義の路線ではなく憲法・平和重視の小日本主義の立場をとった武村正義「ムーミンパパ」に従った人たちだ。細川内閣で与党となり、羽田内閣のゴタゴタで小沢らについて行けなくなって袂を分かち、自民党と社会党連立の村山内閣では政権の接着剤となった。政界再編の時期に社会党と並んで、最も長く政権につき続け、よくも悪くもその間に権力の味と実態を目にあたりにしたグループである。鳩山由紀夫が代表的存在だが、玄葉光一郎外務大臣以外(無所属で当選後、1993年12月に入党)、それほど純粋組は今に残っていない。実は次の派生型が現在では政権で有力である。
(2a)日本新党→新党さきがけ→旧民主党→現在
1993年の衆議院総選挙で細川護煕をしたって日本新党で初当選した議員の多くが、今は与野党で重要な地位に就いているが、実は細川内閣の途中で細川から武村に宗旨代えした議員は多いのである。先の荒井の他、前原も枝野も小沢鋭仁元環境大臣、五十嵐文彦財務副大臣もそうである。その結果、村山内閣でも新進党に行って野党になることなく与党生活を満喫できたのであるから、原理原則のないご都合主義者として非難されそうなものだ。が、現実はそうでもない。やはり政治とは理想や倫理でなく現実のものであり、政治家は不確かな理想論より、ただ長くしっかり権力にしがみついた方が、より良い経験ができて将来に生きるのだろう。
(2b)社民連→新党さきがけ→旧民主党→現在
実は菅直人前首相一人である。一つ前のグループに似た政治行動だが、その結果、市民運動、弱小政党出身ながら、自民党の若きエリート並の出世速度(若く初当選し、それから十数年の40歳代で大臣になるパターン)で第一次橋本内閣の厚生大臣の地位を、50歳を前にして射止めたわけだ。その結果、以前から政界では玄人受けする存在ではあったが、政界再編期には地味な存在にすぎなかったものが、薬害エイズ事件で一躍国民的英雄になれた。その知名度を生かして。旧民主党で結党当初から鳩山と並んで二人代表の地位を占め、大同団結による1998年の現民主党の結成後に野党第一党の代表の地位を手にしたのである。近く首相になることは、この時点で十分される事態であった。
実はすさまじい権謀術数の持ち主であることを象徴する履歴である。社民連を94年初めに解党した際に、実は党のオーナーだが新進党に行った江田五月と袂を分かっているのに、いつの間にか元の仲間に戻って10年経つのも謎である。
(2c)民社党→新進党→新党さきがけ→旧民主党→現在
1990年に初当選以来、7回連続当選を続ける小平忠正だけである。なぜか1990年組では大臣になりそびれ、両院議員総会長や中央選挙管理委員長など党の傍系ポストを歴任し続ける不思議な存在である。途中の一匹狼的行動により、第一次橋本内閣で政務次官の地位を得たことがマイナスに影響しているようである。
○ 村山・橋本内閣で野党
(3) (自民党→)新生党・日本新党など→新進党→(国民の声・フロムファイブなど)→民政党→現在
自民党にいた履歴があるかは初当選時期によるが、政治信条的に保守よりということである。渡辺恒三以下、岡田克也、野田首相、藤村官房長官らの履歴である。野田首相は1996年の総選挙で落選しているので、それから4年間の浪人中の政治行動の評価が難しい。実は鹿野道彦農水大臣は自民党時代から「清和会の若きプリンス」だったが、細川内閣の当初からはせ参じたわけではない。後に三重県知事からマニフェスト提唱者として大学教授の地位におさまった北川正恭にかつがれて、細川内閣の途中で自民党を離党したのである。新進党解党で混乱する中、「国民の声」で代表となったが、その後10年以上も雌伏の時を過ごした理由がその辺りに潜んでいそうだ。
(3a)社民連→日本新党→新進党→(いろいろ)→現在
江田五月だけの特異な履歴である。なぜ94年初めに社民連を解散した際に菅直人と行動を共にしなかったかについては分からない。以前からの菅との意見の相違も理由にあったようだが、小政党の社民連に一つ閣僚ポストを割り振って細川内閣で科学技術庁長官として初入閣させてくれた細川首相や小沢ら保守系の恩義に江田が報いたとする説が有力である。新進党解党のゴタゴタ期を岡山県知事選への出馬と落選で浪人、1983年以来の参議院への復帰という過程で過ごしたので、その時期の身の処し方についてはアンビバレントな存在でいられたようである。
(4)民社党→新進党→新党友愛→現在
このグループは民社協会を維持して今も堅い結束を誇り、1983年初当選で年長ながら3回落選した不遇な田中慶秋を会長として、民社党の元書記長だった中野寛成元国家公安委員長や直嶋正行元経済産業大臣、川端文部科学大臣、城島国対委員長らを擁する。だが、中井「はまぐり」や小平忠正ら脱落者もいる。
(5)自民党→新生党→新進党→太陽党→民政党→現在
羽田元首相に従い、いち早く1996年の総選挙前に小沢が専横する新進党を離れつつも、自社さ連立の側には戻らずに、野党として太陽党を結成した人たちである。北沢俊美元防衛大臣、前田武志国土交通大臣らがそうである。羽田の側近たちであり、竹下派七奉行の一人で民主党結党まもなく1998年に死んだ奥田敬和も同期当選の仲間の羽田に従った。
(6)(自民党→)新生党→新進党→自由党→現在
小沢一郎に忠実に従った者がたどったコースであり、先ほど急死した参議院議長の西岡武夫や、最高顧問の藤井裕久、山田正彦前農水大臣らが代表的存在である。ここから脱落した有力者は多く、小渕内閣の自自連立が崩壊した際に野田毅や扇千景らは与党に残るために保守党を作り、やがて自民党に復帰した。藤井も山田も今は小沢の元を完全に離れている。最後まで残った有力者が、実は小沢より初当選が6年も早い(が、二回の浪人生活で議員在籍期間はほぼ同じ)兄貴分の西岡武夫だけであった。
(6a)民社党・公明党→新進党→自由党→現在
拉致問題で話題になる中井「はまぐり」元国家公安委員長らが属する。新進党解党時に新生党時代の仲間でないのに小沢に従ったやや傍系コースである。
(7)社会党・日本新党など→市民リーグなど→旧民主党→現在
細川内閣では与党の立場にありながら、村山内閣では自社さと組まなかったが、といって巨大野党の新進党にも加わらなかったグループである。代表的存在は先述の横路孝弘だが、当時に現職の議員だった人たちだと、実は海江田万里前経済産業大臣も市民リーグ代表であり、浪人中の仙石と連合して地域政党のネットワークを作り、旧民主党結成の中心的存在であった。
「民主党は寄せ集めの党」
「政界渡り鳥だらけ」
という、罵倒に近い評価が下されていることがある。また
「社会党出身者が勢力を持っていることが最大の癌」
という評価も2ちゃんねるあたりでは常識化している。
だが、これらの評価は妥当なのだろうか。
そもそも、自民党のように確固とした政党が不変に存在していたなら、そこから出たり入ったりした人間がマイナス評価を受けるのは当然である。例えば石破茂や茂木、小池百合子あたりである。だが、政治生活の根拠地と思っていた政党が新進党や自由党のように突然なくなったり、新党さきがけや社民党(第一次橋本内閣で連立を組んでいた1996年初頭に政党名を変更した)のように、1996年の総選挙を前にして結成された旧民主党に多くの議員が離党して詰めかけてしまい、抜け殻のようになった元の党に残ることが諸事情から困難となり、大勢の赴くところに従ったものまで、節操のない政界渡り鳥と言えるだろうか。
また、派閥化しつつある諸グループに属する民主党の諸議員の政治行動の原理の観察を困難にしている最大の理由の一つとして、「本籍と現住所」の問題がある。いわゆる横路グループ(今の領袖は、衆議院議長として党派的行動の取れない横路孝弘ではなく、輿石東だろうが、なぜか輿石グループとは言わない)は旧社会党、民社協会は旧民社党などと、過去の政党歴(本籍)と現在の派閥(現住所)が一致している場合は良いが、1990年代の政界再編前後から当選回数を重ねた大臣クラスのけっこう有力な議員ほど、履歴から予想される今の所属派閥が意外なのだ。
例えばキャミソール事件で短命大臣に終わった荒井聡は農水省官僚出身で北海道庁に出向して横路知事の側近だったはずだが、1993年の選挙後に日本新党に所属して、2aで後述の政治履歴を経て、横路グループではなく菅グループの幹部である。大畠前国土交通大臣(その前に3ヶ月だけ経済産業大臣もしている)は土井たか子ブームで1990年の総選挙で大躍進した社会党から大量に初当選した土井チルドレンの一人である。民主党結成以来、鳩山グループの幹部となり、鳩山の首相在任中は派閥の留守を預かって会長まで務めたが、菅降ろしのゴタゴタの中で鳩山に愛想をつかして鹿野グループの結成にはせ参じた。仙石由人も1990年初当選の社会党新人だったが、なぜか民主党では前原グループの顧問格ないし、蔭の支配者となっている。
以上のような問題を整理するためには、党内の大勢を占める側から順に、政党履歴をグループ分けすることが有意であろうと考える。もちろんこれは各政治家の行動を道義的に価値判断するものではない。そういう判断をする時の基礎情報を提供するためである。ウィキペディアの各項目や政治家自らが説明する履歴を読めば、分かる人は分かるのだが、1990年代の政党変遷を正確に理解していないことには、読解困難な書き方も多い。そもそも一般人にとって1990年代の政界再編期は忘れられたほとんど謎の存在である。
○村山・橋本内閣で与党
(1) 旧社会党→旧民主党→現在
社会党の1990年初当選組はこのパターンである。多くは今も社会党時代の結びつきを保って横路グループに属するが、先述の大畠や筒井信孝農水副大臣、斉藤勁官房副長官ら現住所はそうでないものもいる。現在の領袖である輿石の他、社会党の「お粗末書記長」、鳩山内閣の「お粗末農水大臣」たる赤松、同和・福岡空港利権の松本龍(環境大臣としては有能だったらしい)、「死の街」「放射能をつけてやる」の鉢路前経済産業大臣、反日国家公安委員長と言われて4ヶ月で大臣を辞めた岡崎トミ子、前述の人物らが属する。こう書くと、確かにネット右翼が攻撃する理由が分かってしまう。そこまで非難すべきとも思えないが。
民主党では本来は人数で圧倒的に最大勢力だったのだが、党の主要ポストは新党さきがけ組に野党時代から取られ、社会党時代からの議員が次々に引退していくなか、それほど現在の勢力は大きくない。
注意しなければならないのは、領袖の横路自身は村山内閣の段階に於いては与党の立場でなかったということである。1969年に社会党のプリンスとして28歳で初当選したが、1983年から95年まで北海道知事を務め、旧民主党結党の中心となって1996年に衆議院に返り咲くまで一年ほど浪人期間(これは2期目を落選して1993年から96年まで浪人していた仙石も事情が似ている)がある。若き「革新知事」(今や死語)として当選しながらも、道民党を主張したのは政略であり、一貫して自民党抜きの政権交代を追究し、自民党を政権の座に引き戻した自社さ連立のあり方を批判した。中央政界で浦島太郎だとして、当時のいしいひさいちの政界マンガでは徹底的に諷刺の対象となっている。
横路は中央政界復帰に当たって知事の後継者としては、新進党後援で側近の副知事の堀達也を立て、村山内閣の自社さ連立を象徴する存在として立候補した1990年社会党初当選組の伊東秀子(2007年の参議院比例区の繰り上げ名簿に掲載されており、現在は国民新党に属する)と争った。この時は横路後継阻止のために自社さ側から鳩山由紀夫を知事候補に擁立する動きもあり、極めてねじれた選挙戦であった。
(2) (自民党→)新党さきがけ→旧民主党→現在
自民党を批判して離党したが、当時の小沢のような新自由主義の路線ではなく憲法・平和重視の小日本主義の立場をとった武村正義「ムーミンパパ」に従った人たちだ。細川内閣で与党となり、羽田内閣のゴタゴタで小沢らについて行けなくなって袂を分かち、自民党と社会党連立の村山内閣では政権の接着剤となった。政界再編の時期に社会党と並んで、最も長く政権につき続け、よくも悪くもその間に権力の味と実態を目にあたりにしたグループである。鳩山由紀夫が代表的存在だが、玄葉光一郎外務大臣以外(無所属で当選後、1993年12月に入党)、それほど純粋組は今に残っていない。実は次の派生型が現在では政権で有力である。
(2a)日本新党→新党さきがけ→旧民主党→現在
1993年の衆議院総選挙で細川護煕をしたって日本新党で初当選した議員の多くが、今は与野党で重要な地位に就いているが、実は細川内閣の途中で細川から武村に宗旨代えした議員は多いのである。先の荒井の他、前原も枝野も小沢鋭仁元環境大臣、五十嵐文彦財務副大臣もそうである。その結果、村山内閣でも新進党に行って野党になることなく与党生活を満喫できたのであるから、原理原則のないご都合主義者として非難されそうなものだ。が、現実はそうでもない。やはり政治とは理想や倫理でなく現実のものであり、政治家は不確かな理想論より、ただ長くしっかり権力にしがみついた方が、より良い経験ができて将来に生きるのだろう。
(2b)社民連→新党さきがけ→旧民主党→現在
実は菅直人前首相一人である。一つ前のグループに似た政治行動だが、その結果、市民運動、弱小政党出身ながら、自民党の若きエリート並の出世速度(若く初当選し、それから十数年の40歳代で大臣になるパターン)で第一次橋本内閣の厚生大臣の地位を、50歳を前にして射止めたわけだ。その結果、以前から政界では玄人受けする存在ではあったが、政界再編期には地味な存在にすぎなかったものが、薬害エイズ事件で一躍国民的英雄になれた。その知名度を生かして。旧民主党で結党当初から鳩山と並んで二人代表の地位を占め、大同団結による1998年の現民主党の結成後に野党第一党の代表の地位を手にしたのである。近く首相になることは、この時点で十分される事態であった。
実はすさまじい権謀術数の持ち主であることを象徴する履歴である。社民連を94年初めに解党した際に、実は党のオーナーだが新進党に行った江田五月と袂を分かっているのに、いつの間にか元の仲間に戻って10年経つのも謎である。
(2c)民社党→新進党→新党さきがけ→旧民主党→現在
1990年に初当選以来、7回連続当選を続ける小平忠正だけである。なぜか1990年組では大臣になりそびれ、両院議員総会長や中央選挙管理委員長など党の傍系ポストを歴任し続ける不思議な存在である。途中の一匹狼的行動により、第一次橋本内閣で政務次官の地位を得たことがマイナスに影響しているようである。
○ 村山・橋本内閣で野党
(3) (自民党→)新生党・日本新党など→新進党→(国民の声・フロムファイブなど)→民政党→現在
自民党にいた履歴があるかは初当選時期によるが、政治信条的に保守よりということである。渡辺恒三以下、岡田克也、野田首相、藤村官房長官らの履歴である。野田首相は1996年の総選挙で落選しているので、それから4年間の浪人中の政治行動の評価が難しい。実は鹿野道彦農水大臣は自民党時代から「清和会の若きプリンス」だったが、細川内閣の当初からはせ参じたわけではない。後に三重県知事からマニフェスト提唱者として大学教授の地位におさまった北川正恭にかつがれて、細川内閣の途中で自民党を離党したのである。新進党解党で混乱する中、「国民の声」で代表となったが、その後10年以上も雌伏の時を過ごした理由がその辺りに潜んでいそうだ。
(3a)社民連→日本新党→新進党→(いろいろ)→現在
江田五月だけの特異な履歴である。なぜ94年初めに社民連を解散した際に菅直人と行動を共にしなかったかについては分からない。以前からの菅との意見の相違も理由にあったようだが、小政党の社民連に一つ閣僚ポストを割り振って細川内閣で科学技術庁長官として初入閣させてくれた細川首相や小沢ら保守系の恩義に江田が報いたとする説が有力である。新進党解党のゴタゴタ期を岡山県知事選への出馬と落選で浪人、1983年以来の参議院への復帰という過程で過ごしたので、その時期の身の処し方についてはアンビバレントな存在でいられたようである。
(4)民社党→新進党→新党友愛→現在
このグループは民社協会を維持して今も堅い結束を誇り、1983年初当選で年長ながら3回落選した不遇な田中慶秋を会長として、民社党の元書記長だった中野寛成元国家公安委員長や直嶋正行元経済産業大臣、川端文部科学大臣、城島国対委員長らを擁する。だが、中井「はまぐり」や小平忠正ら脱落者もいる。
(5)自民党→新生党→新進党→太陽党→民政党→現在
羽田元首相に従い、いち早く1996年の総選挙前に小沢が専横する新進党を離れつつも、自社さ連立の側には戻らずに、野党として太陽党を結成した人たちである。北沢俊美元防衛大臣、前田武志国土交通大臣らがそうである。羽田の側近たちであり、竹下派七奉行の一人で民主党結党まもなく1998年に死んだ奥田敬和も同期当選の仲間の羽田に従った。
(6)(自民党→)新生党→新進党→自由党→現在
小沢一郎に忠実に従った者がたどったコースであり、先ほど急死した参議院議長の西岡武夫や、最高顧問の藤井裕久、山田正彦前農水大臣らが代表的存在である。ここから脱落した有力者は多く、小渕内閣の自自連立が崩壊した際に野田毅や扇千景らは与党に残るために保守党を作り、やがて自民党に復帰した。藤井も山田も今は小沢の元を完全に離れている。最後まで残った有力者が、実は小沢より初当選が6年も早い(が、二回の浪人生活で議員在籍期間はほぼ同じ)兄貴分の西岡武夫だけであった。
(6a)民社党・公明党→新進党→自由党→現在
拉致問題で話題になる中井「はまぐり」元国家公安委員長らが属する。新進党解党時に新生党時代の仲間でないのに小沢に従ったやや傍系コースである。
(7)社会党・日本新党など→市民リーグなど→旧民主党→現在
細川内閣では与党の立場にありながら、村山内閣では自社さと組まなかったが、といって巨大野党の新進党にも加わらなかったグループである。代表的存在は先述の横路孝弘だが、当時に現職の議員だった人たちだと、実は海江田万里前経済産業大臣も市民リーグ代表であり、浪人中の仙石と連合して地域政党のネットワークを作り、旧民主党結成の中心的存在であった。
1970年代の交通事情について [交通]
1970年代の交通事情を語るのは、いささか困難である。
というのは、交通インフラの点で、現代に非常に近い面もある反面で、ソフト面(グリーン車利用規程など別に論じたい)など現代と異なる点について想像力を働かせることが難しい程度には昔であるという半端な性格を持っているからだ。
東京や大阪起点に見ると、現代より遅れている面ばかり目につくが、地方対地方だと意外な面も気がつく。
国鉄なら長距離は動力近代化以前の蒸気列車ばかりの時代でもない。1968年にはいわゆるヨンサントウ改正で在来線で最高速度120キロ運転が始まっており、1972年には岡山まで山陽新幹線も開通し、1975年には博多まで全通する。
高速道路も意外と開通している。首都高速も阪神高速も都心部は出来ているし、第三京浜も開通している。名神高速に次いで、大阪万博をめがけて東名高速が1969年に既に全通しているし、1970年代半ばまでに東北道も盛岡あたりまでは通じる(全通は1980年代半ばだが)。
地元だと、北陸自動車道は地域内で孤立した存在だが、1972年に小松空港へのアクセス道路として金沢西~小松ICが開通したのを皮切りに、三県相互の道路網は接続する国道バイパスなども含めて1970年代半ばには完成している。当時の高速道路で片側一車線の暫定開通は例外的なもの(中央道に例はあった)だったので、いきなり片側二車線の単独有料道路が出来たわけだ。
航空もけっこう現在に近い。
福岡、大阪、羽田、札幌を結ぶいわゆる幹線は1960年代半ばまでにジェット化が完了している。それ以外のローカル線はプロペラ便(YS11)が目につき、便数も一日数便の殿様ダイヤ(私の造語、普通の人の日帰りの用事などに使いづらい昼間の半端な時間に一往復か二往復程度飛ぶだけで、出迎えが接待が行き先でつくような偉い人が悠然と泊まりででかけるためのような当時のローカル線のダイヤ)で実用性に乏しい路線も多いが、鹿児島・熊本・宮崎・長崎・松山・小松・仙台・三沢・函館などの先進的な空港からジェット化は進展している。
以前にも書いたことがあるが、1970年代初めの羽田~伊丹便は今以上に栄えている。便数は一日40往復を超えるだけでなく、深夜便も飛ぶだけでなく、今は伊丹に飛行機が発着できない午後10時ころまで便が設定されている。伊丹空港に意味不明のエアバス(ワイドボディー機)規制があったために、JALは中古機まで海外から買いあさってDC8-61を国内幹線に集中投入していた。国内線仕様で定員230人以上と、ナローボディー最大の輸送力があったが、既にメーカー生産が終わっていたための措置だった。
また地元の話に戻る。
親の話を聞いてみると、1970年代後半には今以上に小松~福岡、千歳のジェット便の利用価値が高かったようだ。金沢から岩国に移動する最も時間的に最適な手段が、福岡に飛行機で飛んでから新幹線で新岩国に引き返すことだったというのも意外だ。雷鳥の所要時間が遅く、「ひかり」の1時間1本の速達便が混雑などで使いにくく、山陽新幹線も実質的にはけっこう時間のかかる乗り物だったからということのようだ。
むしろ夜間駐機もなく、便数(3便)と輸送力(747SR就航と夜間駐機は1980年以降から)が限られた羽田便が使いにくかった。ボーイング727からトライスターに代わっても搭乗率は9割を超えていたという(当時の『北国新聞』の特集記事)から、実際には急な用事には使いにくかったろう。
にもかかわらず、様々な理由で、もっと交通は東海道新幹線や名神高速など進んだものが部分的にあっても、全体では前近代的で不便だったという印象が世間では一般的のようだ。
誤解の生ずる理由は様々である。
まず現代のようなインターネットですぐ乗り継ぎや運賃などを調べられる情報化時代ではないということを念頭に置く必要がある。だから人々の情報格差は大きく、頻繁な出張客が飛行機を重用していたといって、家族客などに航空機が一般化していたとは言えないからである。まだ飛行機は高値の花と思っている人も多かったし、周遊券など移動に急行列車を利用すれば圧倒的に安く、今の青春18きっぷよりずっと実用的な旅行手段だった。
道路の情報もそうである。カーナビもないし、当時の道路地図など、観光にはかろうじて使えても、行き先の市街地の移動に使うには無理な水準である。
当時はけっこう自家用車も想像以上に多用されている。1970年代半ばの大分大学では自宅生の多くは自動車通学だったとか。20代男性の運転免許所得率は今以上だ。一方で、社会に遍在しているとは言えない微妙さがある。1970年の新年号から連載が始まった「ドラえもん」では、東京郊外に住む野比家や剛田家に自家用車がないことにさほど不自然さはない。
さらに問題は1970年代に出張などで長距離移動を繰り返していた層は60代以上(当時で20代の若造が遠出を繰り返していた事例は少ないだろうから、70代以上と言ってもいい)でもう引退世代である。社会的に発言力がなくなっているし、ネットへの親和性は乏しい。
「大阪~神戸の国道43号線は片側5車線の世界有数の都市間道路だった」
「名古屋~岐阜の名岐国道は盛り土、側道を備えた、今で言う準高規格道路で、信号もキロ単位だった」
「電車急行にもビュッフェがあり、寿司やそば程度は食べられた」
「昭和51年の国鉄値上げは強烈で、グリーン料金は今より高い設定になった」
「国鉄の値上げが続いたら、飛行機の普通往復運賃と逆転した」
といった基礎的な事実さえ、あまりネットでも書籍でも語られることが少ない。
この時代を舞台としたドラマなどを見ると、けっこうトンチンカンな時代描写が目についたりする。木造客車(じつは半鋼製)の夜行列車の窮屈なボックスシートで移動していたりするのは序の口だ。『華麗なる一族』のドラマでの神戸市街の描写などが典型だ。まるで戦前だと叩かれたものだ。原作だと次男の銀平が自分用の車のマーキュリーを運転して阪神高速を走って、デートしたりしているし、最初の映画版だと頭取専用車のベンツSクラスが開通間もない神戸大橋(ポートアイランドの埋め立て自体はまだ途上)をかすめて、銀行本店に到着していたりする。
というのは、交通インフラの点で、現代に非常に近い面もある反面で、ソフト面(グリーン車利用規程など別に論じたい)など現代と異なる点について想像力を働かせることが難しい程度には昔であるという半端な性格を持っているからだ。
東京や大阪起点に見ると、現代より遅れている面ばかり目につくが、地方対地方だと意外な面も気がつく。
国鉄なら長距離は動力近代化以前の蒸気列車ばかりの時代でもない。1968年にはいわゆるヨンサントウ改正で在来線で最高速度120キロ運転が始まっており、1972年には岡山まで山陽新幹線も開通し、1975年には博多まで全通する。
高速道路も意外と開通している。首都高速も阪神高速も都心部は出来ているし、第三京浜も開通している。名神高速に次いで、大阪万博をめがけて東名高速が1969年に既に全通しているし、1970年代半ばまでに東北道も盛岡あたりまでは通じる(全通は1980年代半ばだが)。
地元だと、北陸自動車道は地域内で孤立した存在だが、1972年に小松空港へのアクセス道路として金沢西~小松ICが開通したのを皮切りに、三県相互の道路網は接続する国道バイパスなども含めて1970年代半ばには完成している。当時の高速道路で片側一車線の暫定開通は例外的なもの(中央道に例はあった)だったので、いきなり片側二車線の単独有料道路が出来たわけだ。
航空もけっこう現在に近い。
福岡、大阪、羽田、札幌を結ぶいわゆる幹線は1960年代半ばまでにジェット化が完了している。それ以外のローカル線はプロペラ便(YS11)が目につき、便数も一日数便の殿様ダイヤ(私の造語、普通の人の日帰りの用事などに使いづらい昼間の半端な時間に一往復か二往復程度飛ぶだけで、出迎えが接待が行き先でつくような偉い人が悠然と泊まりででかけるためのような当時のローカル線のダイヤ)で実用性に乏しい路線も多いが、鹿児島・熊本・宮崎・長崎・松山・小松・仙台・三沢・函館などの先進的な空港からジェット化は進展している。
以前にも書いたことがあるが、1970年代初めの羽田~伊丹便は今以上に栄えている。便数は一日40往復を超えるだけでなく、深夜便も飛ぶだけでなく、今は伊丹に飛行機が発着できない午後10時ころまで便が設定されている。伊丹空港に意味不明のエアバス(ワイドボディー機)規制があったために、JALは中古機まで海外から買いあさってDC8-61を国内幹線に集中投入していた。国内線仕様で定員230人以上と、ナローボディー最大の輸送力があったが、既にメーカー生産が終わっていたための措置だった。
また地元の話に戻る。
親の話を聞いてみると、1970年代後半には今以上に小松~福岡、千歳のジェット便の利用価値が高かったようだ。金沢から岩国に移動する最も時間的に最適な手段が、福岡に飛行機で飛んでから新幹線で新岩国に引き返すことだったというのも意外だ。雷鳥の所要時間が遅く、「ひかり」の1時間1本の速達便が混雑などで使いにくく、山陽新幹線も実質的にはけっこう時間のかかる乗り物だったからということのようだ。
むしろ夜間駐機もなく、便数(3便)と輸送力(747SR就航と夜間駐機は1980年以降から)が限られた羽田便が使いにくかった。ボーイング727からトライスターに代わっても搭乗率は9割を超えていたという(当時の『北国新聞』の特集記事)から、実際には急な用事には使いにくかったろう。
にもかかわらず、様々な理由で、もっと交通は東海道新幹線や名神高速など進んだものが部分的にあっても、全体では前近代的で不便だったという印象が世間では一般的のようだ。
誤解の生ずる理由は様々である。
まず現代のようなインターネットですぐ乗り継ぎや運賃などを調べられる情報化時代ではないということを念頭に置く必要がある。だから人々の情報格差は大きく、頻繁な出張客が飛行機を重用していたといって、家族客などに航空機が一般化していたとは言えないからである。まだ飛行機は高値の花と思っている人も多かったし、周遊券など移動に急行列車を利用すれば圧倒的に安く、今の青春18きっぷよりずっと実用的な旅行手段だった。
道路の情報もそうである。カーナビもないし、当時の道路地図など、観光にはかろうじて使えても、行き先の市街地の移動に使うには無理な水準である。
当時はけっこう自家用車も想像以上に多用されている。1970年代半ばの大分大学では自宅生の多くは自動車通学だったとか。20代男性の運転免許所得率は今以上だ。一方で、社会に遍在しているとは言えない微妙さがある。1970年の新年号から連載が始まった「ドラえもん」では、東京郊外に住む野比家や剛田家に自家用車がないことにさほど不自然さはない。
さらに問題は1970年代に出張などで長距離移動を繰り返していた層は60代以上(当時で20代の若造が遠出を繰り返していた事例は少ないだろうから、70代以上と言ってもいい)でもう引退世代である。社会的に発言力がなくなっているし、ネットへの親和性は乏しい。
「大阪~神戸の国道43号線は片側5車線の世界有数の都市間道路だった」
「名古屋~岐阜の名岐国道は盛り土、側道を備えた、今で言う準高規格道路で、信号もキロ単位だった」
「電車急行にもビュッフェがあり、寿司やそば程度は食べられた」
「昭和51年の国鉄値上げは強烈で、グリーン料金は今より高い設定になった」
「国鉄の値上げが続いたら、飛行機の普通往復運賃と逆転した」
といった基礎的な事実さえ、あまりネットでも書籍でも語られることが少ない。
この時代を舞台としたドラマなどを見ると、けっこうトンチンカンな時代描写が目についたりする。木造客車(じつは半鋼製)の夜行列車の窮屈なボックスシートで移動していたりするのは序の口だ。『華麗なる一族』のドラマでの神戸市街の描写などが典型だ。まるで戦前だと叩かれたものだ。原作だと次男の銀平が自分用の車のマーキュリーを運転して阪神高速を走って、デートしたりしているし、最初の映画版だと頭取専用車のベンツSクラスが開通間もない神戸大橋(ポートアイランドの埋め立て自体はまだ途上)をかすめて、銀行本店に到着していたりする。
学者の夏休み [海外事情]
都留重人とか鶴見俊輔とかのエッセイや(ハーバード関係者の偏りはあろうが)、あるいは皇太子のイギリス留学回想録とか、あるいはエール大学の朝河貫一関係の史料を読むと、日本の大学研究者にとって意外な事実が分かる。
それは、向こうの学者は夏休みには専門の研究をしない(してはいけない)期間なのだ。
数ヶ月の休みの間、全くの休暇として過ごし、専門の研究には手をつけないということである。
先の二氏が当時でもずば抜けた優秀な留学生であったことは確か(都留重人は首席に近い「大優等」(ラテン語)で表彰されているし、鶴見俊輔も日米開戦で抑留された不利を含めて10代で哲学科を卒業しており、そのまま大学院に残れば22歳で博士号が取れる計算だった)だが、戦前の留学生という言葉から想像するようなガリ勉の様子からはかけ離れた日々だったようだ。長期休暇には必ず太平洋を船で何度も日本に帰って来るし、数年間の修行の日々のようなイメージではない。
オックスフォードに留学して、イギリスの内陸水上交通を研究して修士論文として皇太子(当時は浩宮)は休暇は欧州大陸の各王室の離宮とかを訪ね歩く日々だったと書いているし、朝河貫一も(死ぬまで大学の教員寮に住んでいて、夏休みは居住できなかったのかもしれないが)アメリカ国内の保養地や欧州旅行をしている(ヒゲの寛仁親王に至っては、はっきり「イギリス留学は勉強のためでなくて、欧米社会との社交と場慣れのためだと主張している」)。
戦前の学者でも、中田薫とか三上参次あたりは大学の研究室でしか専門の研究、論文執筆はしなかったようだし、1940年体制ではないが、意外とこの辺りが国際標準かもしれない。
。
恐らく普通の日本人が持つ留学生のガリ勉のイメージは三者によって規定されていると思う。一つはロンドンの下宿に引きこもりで精神病になった夏目漱石のイメージである。実際には漱石の留学仲間は潤沢な留学費を国費で支給されて優雅な社交生活を送っているのだが、チビのコンプレックスがあった漱石は引きこもって、多額の留学費を全て本代に使ってしまっただけなのだが。
もう一つは1ドル360円時代に経済的に困窮して苦しい留学生活を送った戦後直ぐの留学生の体験である。日経の『私の履歴書』あたりを読むと、周りの学生が遊びに行ったり、帰省したりするのに、自分だけは帰国費用もなく夏休みに居場所がなくて、アメリカ人の同級生の家に一夏身を寄せたなどという話は多い。この辺りの人たちは現在も日本の政財界や学界で指導的な地位にあることが多く、その影響は大きかろう。
最後は単なるモラトリアム(ないし経歴偽装)のための語学留学で海外で勉強もせずに遊びまくる人間へのアンチテーゼとして、現地にありもしない(欧米「市民社会」のようなものか)勉学像を説教のために作ってしまった可能性がある。また、企業や官庁が公費で若い社員を留学させることは今でも多いが、
まあ戦前から夏休みに学者が別荘や温泉などに籠もって本を書くというのはあったようだが、当人の学問の精髄というよりは、小遣い稼ぎか売名のための啓蒙書や長めの雑誌原稿というものが多い(そもそも戦前の学者は高等官試験対策の法律学の本を除くと、講義以外に専門の著書を書くことは稀だった。専門によっては、書けば学士院賞ものだった。)。まあ一夏くらいで著しく進展するような学問なら、それは大したことがないだろう。
それは、向こうの学者は夏休みには専門の研究をしない(してはいけない)期間なのだ。
数ヶ月の休みの間、全くの休暇として過ごし、専門の研究には手をつけないということである。
先の二氏が当時でもずば抜けた優秀な留学生であったことは確か(都留重人は首席に近い「大優等」(ラテン語)で表彰されているし、鶴見俊輔も日米開戦で抑留された不利を含めて10代で哲学科を卒業しており、そのまま大学院に残れば22歳で博士号が取れる計算だった)だが、戦前の留学生という言葉から想像するようなガリ勉の様子からはかけ離れた日々だったようだ。長期休暇には必ず太平洋を船で何度も日本に帰って来るし、数年間の修行の日々のようなイメージではない。
オックスフォードに留学して、イギリスの内陸水上交通を研究して修士論文として皇太子(当時は浩宮)は休暇は欧州大陸の各王室の離宮とかを訪ね歩く日々だったと書いているし、朝河貫一も(死ぬまで大学の教員寮に住んでいて、夏休みは居住できなかったのかもしれないが)アメリカ国内の保養地や欧州旅行をしている(ヒゲの寛仁親王に至っては、はっきり「イギリス留学は勉強のためでなくて、欧米社会との社交と場慣れのためだと主張している」)。
戦前の学者でも、中田薫とか三上参次あたりは大学の研究室でしか専門の研究、論文執筆はしなかったようだし、1940年体制ではないが、意外とこの辺りが国際標準かもしれない。
。
恐らく普通の日本人が持つ留学生のガリ勉のイメージは三者によって規定されていると思う。一つはロンドンの下宿に引きこもりで精神病になった夏目漱石のイメージである。実際には漱石の留学仲間は潤沢な留学費を国費で支給されて優雅な社交生活を送っているのだが、チビのコンプレックスがあった漱石は引きこもって、多額の留学費を全て本代に使ってしまっただけなのだが。
もう一つは1ドル360円時代に経済的に困窮して苦しい留学生活を送った戦後直ぐの留学生の体験である。日経の『私の履歴書』あたりを読むと、周りの学生が遊びに行ったり、帰省したりするのに、自分だけは帰国費用もなく夏休みに居場所がなくて、アメリカ人の同級生の家に一夏身を寄せたなどという話は多い。この辺りの人たちは現在も日本の政財界や学界で指導的な地位にあることが多く、その影響は大きかろう。
最後は単なるモラトリアム(ないし経歴偽装)のための語学留学で海外で勉強もせずに遊びまくる人間へのアンチテーゼとして、現地にありもしない(欧米「市民社会」のようなものか)勉学像を説教のために作ってしまった可能性がある。また、企業や官庁が公費で若い社員を留学させることは今でも多いが、
まあ戦前から夏休みに学者が別荘や温泉などに籠もって本を書くというのはあったようだが、当人の学問の精髄というよりは、小遣い稼ぎか売名のための啓蒙書や長めの雑誌原稿というものが多い(そもそも戦前の学者は高等官試験対策の法律学の本を除くと、講義以外に専門の著書を書くことは稀だった。専門によっては、書けば学士院賞ものだった。)。まあ一夏くらいで著しく進展するような学問なら、それは大したことがないだろう。
子供のころに考えていた勘違い その1 [政治]
個人情報保護が問題になるまで、長者番付こと高額納税者のマスコミ発表というものがあった。
小学生中学年くらいまで、私はこれについてとんでもない勘違いをしていた。
すなわち税金というのは所得の額によって決まっているのではなくて、希望するだけいくらでも国庫に納められると思っていたのだ。せいぜい所得に応じた最低率が決まっていて、それ以下だと脱税で処分されるだけだろうとも。
だから全国の長者名簿に載るために、世の中のお金持ちは競って出来るだけたくさん税金を納めようと毎年がんばっていると、推測していた。けっこう上位になった人たちは
「たくさん税金を納めるのは大変だが、まあ世の中のためになることで役立ってうれしい」
というような風にマスコミに(まあ今から考えると模範解答として)答えていたので、まんざら間違いでもないと思ったのだ。
類推の材料として、神社や寺への寄付を想像していた。高々と自分の名前を書くために、義務もないのに何百万円も寄付するお金持ちがいるのだから、国税たるやすごいものだろう。
さらに飛んでもない勘違いもしていた。リクルート事件とかゼネコン汚職が話題になっていたから、政治献金についても誤解していた。
あれは税金の一種であって、政治家が支援者からお金を取りまとめて、義務とされる税目とは別に自主的に税金を払うものであって、沢山の金を集めた政治家が大蔵省から評価されて、政界の重要ポストに就けるから、政治家は自分の地位を高めるために政治献金に努める、たまに政治家が逮捕されるのは献金をくすねるかちゃんと報告しないからだと思っていた。あと納税組合などは税務署からキャッシュバックがあるのだから、きっと政治献金の場合は手数料として手元に残る分がけっこうあるのだろうとも。
小学生中学年くらいまで、私はこれについてとんでもない勘違いをしていた。
すなわち税金というのは所得の額によって決まっているのではなくて、希望するだけいくらでも国庫に納められると思っていたのだ。せいぜい所得に応じた最低率が決まっていて、それ以下だと脱税で処分されるだけだろうとも。
だから全国の長者名簿に載るために、世の中のお金持ちは競って出来るだけたくさん税金を納めようと毎年がんばっていると、推測していた。けっこう上位になった人たちは
「たくさん税金を納めるのは大変だが、まあ世の中のためになることで役立ってうれしい」
というような風にマスコミに(まあ今から考えると模範解答として)答えていたので、まんざら間違いでもないと思ったのだ。
類推の材料として、神社や寺への寄付を想像していた。高々と自分の名前を書くために、義務もないのに何百万円も寄付するお金持ちがいるのだから、国税たるやすごいものだろう。
さらに飛んでもない勘違いもしていた。リクルート事件とかゼネコン汚職が話題になっていたから、政治献金についても誤解していた。
あれは税金の一種であって、政治家が支援者からお金を取りまとめて、義務とされる税目とは別に自主的に税金を払うものであって、沢山の金を集めた政治家が大蔵省から評価されて、政界の重要ポストに就けるから、政治家は自分の地位を高めるために政治献金に努める、たまに政治家が逮捕されるのは献金をくすねるかちゃんと報告しないからだと思っていた。あと納税組合などは税務署からキャッシュバックがあるのだから、きっと政治献金の場合は手数料として手元に残る分がけっこうあるのだろうとも。
札幌のバス雑感 [交通]
(数年前の日記を発掘)
千歳空港行きの空港バスの最終便に札幌駅前から乗り遅れた。
北海道中央バス・北都交通の共同運行(昔はJAL系とANA系として、てんでバラバラに出ていた)として、札幌の空港バスは運行されている。
運行体制は別として、だいたいどうして札幌~新千歳の都心発の最終バスが1815発なのだ?2145発まで東京行きはあるのだぞ。常識的に接続を考えれば1930くらいまでは空港行きを出すべきだろう。
アンチJRとしては時間がかかっても空港バスを使いたかったので、仕方なく地下鉄南北線で麻生まで出て、1900の最終バスを使った。旅客はわずかに4人。だがダイヤ公称55分のところ、実際には45分で到着。札幌市街北部からのアクセスとしては実用的ではある。それに地下鉄にウィズユーカードで乗ったら、ちゃんと少し前に道立近代美術館前から乗ったJRバスと乗り継ぎ割引が利いていた。
http://www.city.sapporo.jp/st/ryoukin.html
カードを使った乗り継ぎの方法が出ていないのは困ったもの。
JRバスのサイトで書いてあるような複雑な方法もやっていない。
http://www.jrhokkaidobus.com/route_bus/route_bus08_2.html
どうやら札幌近郊ではあまりに交通機関のカードが複雑怪奇に入り乱れている結果、一部のヲタしか全貌を把握できない状況となっているようである。
しかも全て磁気カードだからカードリーダーのプログラムは相当穴があるようで、規則と機械のシステム作動の実態も、少なくともある時点では一致していなかった(今でも?)ようである。
http://www.swa.gr.jp/diary/1999/hr-99su6.html
確かに札幌市内をどうやって判断するのか疑問である。バスロケーションと複雑なリンクをしているわけでもなかろう。これだけのカードを財布などに入れておくのも難しかろう。
・ウィズユーカード(札幌市営地下鉄の市内の民間バス)
・北海道中央バスカード
・札樽高速バス共通バスカード
・じょうてつバスカード
・JR北海道バスカード
・同昼間割引カード
(これに加えて中央バスの買物回数券)
おそらくICカードになるときに統合されるのだろうが、素人には分かりやすくなっても、割引率が下がるのがICカードの常である。
話を空港バスに戻す。
もう二社連合は空港バスについて、JR「快速エアポート」に対して完全に勝負を投げているとしか思えない。郊外線はそこそこに運行するが、都心行きについては、都心のホテル辺りで適当に客を拾えればいいとしか考えていないようだ。さすがに常人ならば、札幌駅からJRで36分のところ、80分もかかるとあっては、乗らないということか。
いちおう北都交通に問い合わせの電話をかけてみたら、「申し訳ありませんが、JRをご利用いただけませんか?」である。まあ1800を過ぎて窓口の電話に出るだけ、立派ではある。だいたい高速バスの問い合わせ窓口自体、けっこう営業時間が短かったりするものである。北都交通自体、空港バス以外はニッチな路線しかないのに。
直接関係ないので、どうでもいいが、1545で札幌駅前バスターミナルのJR北海道バス窓口が閉まる状況よりはましではある。おかげで、JRバス専用のバスカードの全貌が分からなかった。昼間のカードなどどこで売っているのだ?10000円券の割引率はすごいが、利用客が少なそうで、車内では売っていない。
http://www.jrhokkaidobus.com/ticket/index.html
(ここからはバス界の川島本です。)
現在の空港バスのルートでは、札幌駅から80分はひたすら市内をグルグル回って空港へ向かうからだが、旭川線と同じルートで高速に乗れば、30分近くは短縮できるはずである。大通り方面は始発という方向でいいと思う。
それでも空港まで1時間弱はかかるが、現在の快速エアポートは近郊旅客と混在しており、1本落とさなければ空港行きは座れない状況である。uシートも混んでいる座りたいときには座れない。割高な割り増し運賃を払っている空港旅客には困った状況である。JRにしてみれば、千歳線の線路容量が逼迫しており、近郊客と分離した空港列車を運転することは難しいのであろうが、編成の増結なども考えてみてほしい。だが新千歳空港駅を最低限の有効長で作ってしまったことが裏目に出ている。昔のエアポートきっぷで特急に乗れた時代が懐かしい。この時代に道民に鉄道で空港に行く習慣を身につけさせたことは大きい。なんだかんだいって交通機関の選択で最大の要因は
「××へは○○で行く」
という刷り込みである。これを変えるのが最も困難である。秋田新幹線や山形新幹線の最大の効果もそれであった。直通の便利さは二次的なものといっていい。
始発(に近い状況でも十分)のバスの居住性の方がはるかに高い。そうやって旅客が適度に増えれば、また昼間10分ヘッドに復帰でき、さらに利便性が向上しよう。
それでいて運賃はバスの方が安い。数年前までの片道820円は脅威の安さであったが、現在の1000円は運賃として分かりやすいし、無期限の4枚組回数券が3600円で販売されているので、実質900円である。さらに地元民は10000円で11500円の価値のあるバスカードが利用可能である。JRも回数券で安くなるが、意外と金券ショップの価格は(東京でも札幌でも)990円くらいと高いし、3ヶ月の期限があるので、個人で購入すると使いきれないリスクが残る。
千歳空港行きの空港バスの最終便に札幌駅前から乗り遅れた。
北海道中央バス・北都交通の共同運行(昔はJAL系とANA系として、てんでバラバラに出ていた)として、札幌の空港バスは運行されている。
運行体制は別として、だいたいどうして札幌~新千歳の都心発の最終バスが1815発なのだ?2145発まで東京行きはあるのだぞ。常識的に接続を考えれば1930くらいまでは空港行きを出すべきだろう。
アンチJRとしては時間がかかっても空港バスを使いたかったので、仕方なく地下鉄南北線で麻生まで出て、1900の最終バスを使った。旅客はわずかに4人。だがダイヤ公称55分のところ、実際には45分で到着。札幌市街北部からのアクセスとしては実用的ではある。それに地下鉄にウィズユーカードで乗ったら、ちゃんと少し前に道立近代美術館前から乗ったJRバスと乗り継ぎ割引が利いていた。
http://www.city.sapporo.jp/st/ryoukin.html
カードを使った乗り継ぎの方法が出ていないのは困ったもの。
JRバスのサイトで書いてあるような複雑な方法もやっていない。
http://www.jrhokkaidobus.com/route_bus/route_bus08_2.html
どうやら札幌近郊ではあまりに交通機関のカードが複雑怪奇に入り乱れている結果、一部のヲタしか全貌を把握できない状況となっているようである。
しかも全て磁気カードだからカードリーダーのプログラムは相当穴があるようで、規則と機械のシステム作動の実態も、少なくともある時点では一致していなかった(今でも?)ようである。
http://www.swa.gr.jp/diary/1999/hr-99su6.html
確かに札幌市内をどうやって判断するのか疑問である。バスロケーションと複雑なリンクをしているわけでもなかろう。これだけのカードを財布などに入れておくのも難しかろう。
・ウィズユーカード(札幌市営地下鉄の市内の民間バス)
・北海道中央バスカード
・札樽高速バス共通バスカード
・じょうてつバスカード
・JR北海道バスカード
・同昼間割引カード
(これに加えて中央バスの買物回数券)
おそらくICカードになるときに統合されるのだろうが、素人には分かりやすくなっても、割引率が下がるのがICカードの常である。
話を空港バスに戻す。
もう二社連合は空港バスについて、JR「快速エアポート」に対して完全に勝負を投げているとしか思えない。郊外線はそこそこに運行するが、都心行きについては、都心のホテル辺りで適当に客を拾えればいいとしか考えていないようだ。さすがに常人ならば、札幌駅からJRで36分のところ、80分もかかるとあっては、乗らないということか。
いちおう北都交通に問い合わせの電話をかけてみたら、「申し訳ありませんが、JRをご利用いただけませんか?」である。まあ1800を過ぎて窓口の電話に出るだけ、立派ではある。だいたい高速バスの問い合わせ窓口自体、けっこう営業時間が短かったりするものである。北都交通自体、空港バス以外はニッチな路線しかないのに。
直接関係ないので、どうでもいいが、1545で札幌駅前バスターミナルのJR北海道バス窓口が閉まる状況よりはましではある。おかげで、JRバス専用のバスカードの全貌が分からなかった。昼間のカードなどどこで売っているのだ?10000円券の割引率はすごいが、利用客が少なそうで、車内では売っていない。
http://www.jrhokkaidobus.com/ticket/index.html
(ここからはバス界の川島本です。)
現在の空港バスのルートでは、札幌駅から80分はひたすら市内をグルグル回って空港へ向かうからだが、旭川線と同じルートで高速に乗れば、30分近くは短縮できるはずである。大通り方面は始発という方向でいいと思う。
それでも空港まで1時間弱はかかるが、現在の快速エアポートは近郊旅客と混在しており、1本落とさなければ空港行きは座れない状況である。uシートも混んでいる座りたいときには座れない。割高な割り増し運賃を払っている空港旅客には困った状況である。JRにしてみれば、千歳線の線路容量が逼迫しており、近郊客と分離した空港列車を運転することは難しいのであろうが、編成の増結なども考えてみてほしい。だが新千歳空港駅を最低限の有効長で作ってしまったことが裏目に出ている。昔のエアポートきっぷで特急に乗れた時代が懐かしい。この時代に道民に鉄道で空港に行く習慣を身につけさせたことは大きい。なんだかんだいって交通機関の選択で最大の要因は
「××へは○○で行く」
という刷り込みである。これを変えるのが最も困難である。秋田新幹線や山形新幹線の最大の効果もそれであった。直通の便利さは二次的なものといっていい。
始発(に近い状況でも十分)のバスの居住性の方がはるかに高い。そうやって旅客が適度に増えれば、また昼間10分ヘッドに復帰でき、さらに利便性が向上しよう。
それでいて運賃はバスの方が安い。数年前までの片道820円は脅威の安さであったが、現在の1000円は運賃として分かりやすいし、無期限の4枚組回数券が3600円で販売されているので、実質900円である。さらに地元民は10000円で11500円の価値のあるバスカードが利用可能である。JRも回数券で安くなるが、意外と金券ショップの価格は(東京でも札幌でも)990円くらいと高いし、3ヶ月の期限があるので、個人で購入すると使いきれないリスクが残る。
運転代行業の新サービスは? [自動車]
高齢者の自動車運転が問題になっている。有意な増加率で高齢者が運転する事故が起きている。高齢者講習というのは、やばい年寄りを説得して免許証を返上させる制度らしい。
だが、高齢者が運転を止めると極端に行動圏が縮小して、心身が衰えてしまうというのも事実である。運転することが医療費を減少させる面も否定できない。
そこで、やや運転に問題のある高齢者に運転を許しながら、事故を防ぐ方法を考えた。
すなわち自動車教習所の教習方式である。教官が助手席に乗って、運転者に指図をしながら、やばい時に助手席に特別に設置されたブレーキを踏む方式である。高齢者の車をこのような教習車の構造に改造すればいいのである。
改造費用の問題はあろうが、ブレーキを付けるだけなら意外と簡単な改造らしい。BMWなど外車の教習車も多いが、日本のディーラーレベルで簡単に助手席ブレーキを設置しているわけだし、後付けもできる。
そして教習所の教官のような一定の資格を有した人間が同乗した場合のみ、運転を許可するのである。
「はい、つぎ左右を確認してください」
「来ませんから、いま出てください」
「もうすぐ信号が変わりますよ」
「もう少し車線の右側を走ってください」
「前の車のペースに合わせてください」
などなど
人件費の問題が気になろうが、福祉タクシーと手間(=人件費)はあまり変わらない。自分自身は指図するだけで運転しないのだから、より楽である。介護保険の送迎サービスの方がはるかにコストがかかっている。
それでも事故が起こってしまった場合を心配する向きもあろうが、それは教習中でも同じである。
(はっきり言って、何十年運転してきた年寄りより問題有る運転の若い女性は多い。年令だけで割り切れない問題だ)
高齢者講習の結果によっては、助手を義務づければいいし、そこまででない高齢者にも、教習車仕様を推奨すればいい。
もっとやばい運転の年寄りには、左右の両方の席にハンドル、アクセルなどの付いた車を用意すればいい。途上国では右ハンドルから左ハンドルへの改造なんて日常的だし、日本でも沖縄が左側通行に切り替わったとき、バスのハンドルの位置を付け替えたりしている。ブレーキのみの設置より困難そうだが、不可能ではない。助手席の補助者の判断でスイッチが切り替えられるようにして(飛行場のランプバスや重機などにはそういう構造の自動車がある)、ある瞬間からは助手席(の左ハンドル)で運転すればいい。元の運転台のハンドルにも適当な反力を付ければばれないだろう。
「わしもなかなか上手く運転できるな」
といって年寄りは満足するだろう。
だが、高齢者が運転を止めると極端に行動圏が縮小して、心身が衰えてしまうというのも事実である。運転することが医療費を減少させる面も否定できない。
そこで、やや運転に問題のある高齢者に運転を許しながら、事故を防ぐ方法を考えた。
すなわち自動車教習所の教習方式である。教官が助手席に乗って、運転者に指図をしながら、やばい時に助手席に特別に設置されたブレーキを踏む方式である。高齢者の車をこのような教習車の構造に改造すればいいのである。
改造費用の問題はあろうが、ブレーキを付けるだけなら意外と簡単な改造らしい。BMWなど外車の教習車も多いが、日本のディーラーレベルで簡単に助手席ブレーキを設置しているわけだし、後付けもできる。
そして教習所の教官のような一定の資格を有した人間が同乗した場合のみ、運転を許可するのである。
「はい、つぎ左右を確認してください」
「来ませんから、いま出てください」
「もうすぐ信号が変わりますよ」
「もう少し車線の右側を走ってください」
「前の車のペースに合わせてください」
などなど
人件費の問題が気になろうが、福祉タクシーと手間(=人件費)はあまり変わらない。自分自身は指図するだけで運転しないのだから、より楽である。介護保険の送迎サービスの方がはるかにコストがかかっている。
それでも事故が起こってしまった場合を心配する向きもあろうが、それは教習中でも同じである。
(はっきり言って、何十年運転してきた年寄りより問題有る運転の若い女性は多い。年令だけで割り切れない問題だ)
高齢者講習の結果によっては、助手を義務づければいいし、そこまででない高齢者にも、教習車仕様を推奨すればいい。
もっとやばい運転の年寄りには、左右の両方の席にハンドル、アクセルなどの付いた車を用意すればいい。途上国では右ハンドルから左ハンドルへの改造なんて日常的だし、日本でも沖縄が左側通行に切り替わったとき、バスのハンドルの位置を付け替えたりしている。ブレーキのみの設置より困難そうだが、不可能ではない。助手席の補助者の判断でスイッチが切り替えられるようにして(飛行場のランプバスや重機などにはそういう構造の自動車がある)、ある瞬間からは助手席(の左ハンドル)で運転すればいい。元の運転台のハンドルにも適当な反力を付ければばれないだろう。
「わしもなかなか上手く運転できるな」
といって年寄りは満足するだろう。
どうして菅首相は辞めずに済んでいるか? [政治]
もう菅内閣を遅くとも8月までに辞めさせるというコンセンサスは、民主党の執行部、枝野官房長官あたりまで行き渡っていることは確かだが、どうして菅首相がその地位(民主党代表=内閣総理大臣)に踏ん張れるかという状況の分析があまり新聞、マスコミなどで出来ていない(政治記者が分かっていても報道しない?)ように思われる。
だいたい三つの理由は指摘されている。
第一に言われるのは、菅首相個人(ないし伸子夫人?)の権力への比類ない執着心である。社民連という小政党から出発しながら、40代で初入閣を果たし、ここまでに至った権謀術数と権力欲は並大抵ではない。江田五月という竹下=金丸関係のようなバックもある。
第二に野党サイドの都合で言われるのは一事不再議の問題である。昨日は試みに石破が国会質問をしていた問題だ。6月初頭に内閣不信任案が否決されてしまったので、野党から与党の反対派と呼応して倒閣することが不可能だという話だ。
第三に震災復興のための政治空白を避けるという論理である。だが野党の言うように(その批判は必ずしも当たっていないか、プロ野球を見ながら監督の采配を批判するオヤジのようなものだが)、菅内閣のおかげで復興が阻害されているというなら、政治空白論は駄目だろう。
一番指摘されていないのは、民主党内の政党運営のシステムと派閥の政治バランスの分析である。
まず、民主党には代表のリコール規定が存在しない。2年間の代表任期の間は自ら辞任しない限り、代表を辞める必要はない。
第二に前原・野田グループと菅グループの深刻な対立の構図である。もう菅は、自分を引きずり下ろそうとする仙石や野田と和解することはないだろう。そして依然として最大派閥である小沢グループをたたいたのは菅ではなく、前原・野田グループだと罪を押しつければ、敵の敵は味方として小沢と連携が可能だろう。だいたい鳩山政権時代は前原・野田(派閥領袖たる野田は鳩山内閣では入閣さえできなかった)らが反主流派であり、菅はトロイカ体制の一端で小沢幹事長の片棒を担ぎ、昨年の小沢邸新年会にもはせ参じていたことを忘れてはならない。小沢の政治資金問題は秋には無罪となることが明らか(検察が無理ねただと思ったから不起訴になったのであって、検察審査会の強制起訴の先は見えている)だから、その後は小沢グループと連携する正当性が生じる。
第三に言えるのは、民主党での役員会と常任幹事会の権限違いが認識されていない点である。枝野官房長官、仙石官房副長官兼代表代行、岡田幹事長、玄葉政調会長兼国家戦略相、輿石参院会長、安住国対委員長が菅の退陣を迫り、執行部、役員会を制圧しているが、役員会の議決だけでは何事も運ばないように民主党のシステムが出来ている。すなわち、閑職の副代表と各地区代表の常任幹事を含んだ常任幹事会を経なければ、党務レベルで様々なことが運ばないように出来ている。そして副代表には石毛瑛子などの旧民主党以来の腹心や他派閥など重鎮(山岡、石井ら)、高嶋ら旧閣僚など執行部の一筋縄でいかない人間を置き、常任幹事には政権運営から遠ざけられながら、民主党の歴史で創立時の代表以来一貫して要職についてきた菅に逆らえないような(恐らく無能で政策などに疎く、政務三役につけられない)人間を配置している。
民主党の組織で、役員会と常任幹事会の構成に、顧問格の江田五月が大きな関心を持っていることは、江田五月のサイトの民主党史料集を見ても分かる。過去の民主党の役職一覧を見られる唯一のサイトだが、しっかり役員会と常任幹事会のメンバーにチェックがついており、絶えず江田が気にしていたことが分かる。
党内から菅首相打倒は難しい。
内閣も執行部の一筋縄でいかないように、固めている。大臣も昨年9月1月の改造の以来、鹿野や中野ら1976年組重鎮や、高木・大畠・細川ら1990年組を年功序列で置いている。この人たちは鳩山内閣では閣僚となれず、干されていたため、菅に逆らうことはない。
原口ら一癖ある人間は国会の委員長に入れてある。ある意味、内閣からも党務からも離れた立場なので、その影響は無視できる。
だいたい三つの理由は指摘されている。
第一に言われるのは、菅首相個人(ないし伸子夫人?)の権力への比類ない執着心である。社民連という小政党から出発しながら、40代で初入閣を果たし、ここまでに至った権謀術数と権力欲は並大抵ではない。江田五月という竹下=金丸関係のようなバックもある。
第二に野党サイドの都合で言われるのは一事不再議の問題である。昨日は試みに石破が国会質問をしていた問題だ。6月初頭に内閣不信任案が否決されてしまったので、野党から与党の反対派と呼応して倒閣することが不可能だという話だ。
第三に震災復興のための政治空白を避けるという論理である。だが野党の言うように(その批判は必ずしも当たっていないか、プロ野球を見ながら監督の采配を批判するオヤジのようなものだが)、菅内閣のおかげで復興が阻害されているというなら、政治空白論は駄目だろう。
一番指摘されていないのは、民主党内の政党運営のシステムと派閥の政治バランスの分析である。
まず、民主党には代表のリコール規定が存在しない。2年間の代表任期の間は自ら辞任しない限り、代表を辞める必要はない。
第二に前原・野田グループと菅グループの深刻な対立の構図である。もう菅は、自分を引きずり下ろそうとする仙石や野田と和解することはないだろう。そして依然として最大派閥である小沢グループをたたいたのは菅ではなく、前原・野田グループだと罪を押しつければ、敵の敵は味方として小沢と連携が可能だろう。だいたい鳩山政権時代は前原・野田(派閥領袖たる野田は鳩山内閣では入閣さえできなかった)らが反主流派であり、菅はトロイカ体制の一端で小沢幹事長の片棒を担ぎ、昨年の小沢邸新年会にもはせ参じていたことを忘れてはならない。小沢の政治資金問題は秋には無罪となることが明らか(検察が無理ねただと思ったから不起訴になったのであって、検察審査会の強制起訴の先は見えている)だから、その後は小沢グループと連携する正当性が生じる。
第三に言えるのは、民主党での役員会と常任幹事会の権限違いが認識されていない点である。枝野官房長官、仙石官房副長官兼代表代行、岡田幹事長、玄葉政調会長兼国家戦略相、輿石参院会長、安住国対委員長が菅の退陣を迫り、執行部、役員会を制圧しているが、役員会の議決だけでは何事も運ばないように民主党のシステムが出来ている。すなわち、閑職の副代表と各地区代表の常任幹事を含んだ常任幹事会を経なければ、党務レベルで様々なことが運ばないように出来ている。そして副代表には石毛瑛子などの旧民主党以来の腹心や他派閥など重鎮(山岡、石井ら)、高嶋ら旧閣僚など執行部の一筋縄でいかない人間を置き、常任幹事には政権運営から遠ざけられながら、民主党の歴史で創立時の代表以来一貫して要職についてきた菅に逆らえないような(恐らく無能で政策などに疎く、政務三役につけられない)人間を配置している。
民主党の組織で、役員会と常任幹事会の構成に、顧問格の江田五月が大きな関心を持っていることは、江田五月のサイトの民主党史料集を見ても分かる。過去の民主党の役職一覧を見られる唯一のサイトだが、しっかり役員会と常任幹事会のメンバーにチェックがついており、絶えず江田が気にしていたことが分かる。
党内から菅首相打倒は難しい。
内閣も執行部の一筋縄でいかないように、固めている。大臣も昨年9月1月の改造の以来、鹿野や中野ら1976年組重鎮や、高木・大畠・細川ら1990年組を年功序列で置いている。この人たちは鳩山内閣では閣僚となれず、干されていたため、菅に逆らうことはない。
原口ら一癖ある人間は国会の委員長に入れてある。ある意味、内閣からも党務からも離れた立場なので、その影響は無視できる。
増岡浩 [自動車]
増岡は、パリダカールラリー二連覇(加えて撮り鉄w)で有名だが、実はプロのレーサーではない。
年長の篠塚健次郎と同様に、実はプロではない自動車会社の管理職である。
篠塚は大学卒業後、普通に新卒で三菱自動車に入社しており、販売会社の出向して営業やメカニックの経験もある。パリダカで有名な時代にも、営業部(広報だったかも)の部長級社員だった。レース活動は契約金や成功報酬などと縁のない、部長級社員の一般の海外出張扱いの手当しかなかったという。その代わり会社の看板的な存在として、家族で毎月社長から会食に招待される立場だった(これも普通は困るだろう)。三浦友和・山口百恵夫妻の義兄弟(妻が三浦の妹)でもあり、有名人税のようなものには慣れていたのかも。
増岡の場合は三菱自動車の関連会社のラリーアートの社員だったが、三菱のラリー活動撤退に伴い、ラリーアートは昨年に解散してしまった。どうなったのかと思っていたら、wikiによると三菱自動車本社の社員になったらしい。
http://www.mitsubishi-motors.com/publish/pressrelease_jp/corporate/2010/news/detail4337.html
上級エキスパートという肩書きの社内的立場はわかりにくいが、前後の異動者の兼任ポストから判断すると部長級のエンジニアらしい。
三菱自動車のような、自動車会社の中でもこの上もなく日本的で合議を重んじる社風の会社に部長級で中途採用されるというのは珍しいことだ。
年長の篠塚健次郎と同様に、実はプロではない自動車会社の管理職である。
篠塚は大学卒業後、普通に新卒で三菱自動車に入社しており、販売会社の出向して営業やメカニックの経験もある。パリダカで有名な時代にも、営業部(広報だったかも)の部長級社員だった。レース活動は契約金や成功報酬などと縁のない、部長級社員の一般の海外出張扱いの手当しかなかったという。その代わり会社の看板的な存在として、家族で毎月社長から会食に招待される立場だった(これも普通は困るだろう)。三浦友和・山口百恵夫妻の義兄弟(妻が三浦の妹)でもあり、有名人税のようなものには慣れていたのかも。
増岡の場合は三菱自動車の関連会社のラリーアートの社員だったが、三菱のラリー活動撤退に伴い、ラリーアートは昨年に解散してしまった。どうなったのかと思っていたら、wikiによると三菱自動車本社の社員になったらしい。
http://www.mitsubishi-motors.com/publish/pressrelease_jp/corporate/2010/news/detail4337.html
上級エキスパートという肩書きの社内的立場はわかりにくいが、前後の異動者の兼任ポストから判断すると部長級のエンジニアらしい。
三菱自動車のような、自動車会社の中でもこの上もなく日本的で合議を重んじる社風の会社に部長級で中途採用されるというのは珍しいことだ。
日本航空がエアバスA380を導入 [航空]
4月1日、日本航空JALは、欧州航空大手エアバス社の総二階建て超大型機エアバスA380型機の導入を発表した。
新年度の鶴丸マークの復活と併せて、再建の象徴としたい模様だ。
大震災により国際線国内線の航空需要が減退する中で、思い切った判断をしたことについて、金融機関など関係筋に波紋が広がっている。関係者によれば、この重大な経営判断にはいくつかの要因があったようだ。
第一に関係者が挙げるのは、エアバスA380の導入を済ませたか、決定した競合他社との対抗だ。新興会社トップのスカイマークは大手二社に対抗して、ドル箱である欧米への長距離国際線への進出を決定し、専用機材としてエアバスA380を発注している。これによって、大手二社のビジネスクラスの優良顧客を奪う計画である。またJALと既にフランクフルト線で競合するドイツルフトハンザ航空や、パリ線のエールフランスもA380を東京行きの便に導入済みだ。航空評論家の杉浦一機氏はこう語る。
「ジャンボ機ボーイング747の導入では、世界の主要航空各社が導入して国際線のスタンダードとなりました。ようやく生産が軌道に乗ったといった段階で、まだ引き渡しが中途とはいえ、エアバス380も航空界のスタンダードとなりつつあります。」
第二にこの決定の要因として挙げられるのは、近年の航空自由化のためのコスト削減と国内主要空港の発着枠拡大による小型化への反動である。JAL再建のために行きすぎた小型化に対して、輸送力の柔軟性を妨げるものとして問題視されるようになったことが挙げられる。大震災の後、国内大手二社は東北地方への定期便の機材大型化や臨時便の運行を行ったが、機材運用を再建のために効率化して余裕がなくなり、需要に対して十分な輸送力を確保できなくなった点を、東北地方出身の有力民主党議員や国土交通省が問題視して、JALに圧力をかけた模様だ。
第三の要因はエアバス機生産の中心であるフランス政府の圧力があるようだ。外交に詳しい政府筋はこう語る。
「フランスのサルコジ大統領は、震災後に初めて来日した外国首脳です。フランスは電力の8割を原子力でまかなう原発大国であり、日本国内の原発の使用済み燃料の再処理を担うなど、廃棄物の問題でも世界で最もノウハウを持っています。大西洋の対岸のリビア情勢が緊迫する中で、震災と原発問題で全面的に日本政府に協力してくれています。その引き替えに何らかの取引がフランスと日本政府の間にあったのではないかと思われます。」
新年度の鶴丸マークの復活と併せて、再建の象徴としたい模様だ。
大震災により国際線国内線の航空需要が減退する中で、思い切った判断をしたことについて、金融機関など関係筋に波紋が広がっている。関係者によれば、この重大な経営判断にはいくつかの要因があったようだ。
第一に関係者が挙げるのは、エアバスA380の導入を済ませたか、決定した競合他社との対抗だ。新興会社トップのスカイマークは大手二社に対抗して、ドル箱である欧米への長距離国際線への進出を決定し、専用機材としてエアバスA380を発注している。これによって、大手二社のビジネスクラスの優良顧客を奪う計画である。またJALと既にフランクフルト線で競合するドイツルフトハンザ航空や、パリ線のエールフランスもA380を東京行きの便に導入済みだ。航空評論家の杉浦一機氏はこう語る。
「ジャンボ機ボーイング747の導入では、世界の主要航空各社が導入して国際線のスタンダードとなりました。ようやく生産が軌道に乗ったといった段階で、まだ引き渡しが中途とはいえ、エアバス380も航空界のスタンダードとなりつつあります。」
第二にこの決定の要因として挙げられるのは、近年の航空自由化のためのコスト削減と国内主要空港の発着枠拡大による小型化への反動である。JAL再建のために行きすぎた小型化に対して、輸送力の柔軟性を妨げるものとして問題視されるようになったことが挙げられる。大震災の後、国内大手二社は東北地方への定期便の機材大型化や臨時便の運行を行ったが、機材運用を再建のために効率化して余裕がなくなり、需要に対して十分な輸送力を確保できなくなった点を、東北地方出身の有力民主党議員や国土交通省が問題視して、JALに圧力をかけた模様だ。
第三の要因はエアバス機生産の中心であるフランス政府の圧力があるようだ。外交に詳しい政府筋はこう語る。
「フランスのサルコジ大統領は、震災後に初めて来日した外国首脳です。フランスは電力の8割を原子力でまかなう原発大国であり、日本国内の原発の使用済み燃料の再処理を担うなど、廃棄物の問題でも世界で最もノウハウを持っています。大西洋の対岸のリビア情勢が緊迫する中で、震災と原発問題で全面的に日本政府に協力してくれています。その引き替えに何らかの取引がフランスと日本政府の間にあったのではないかと思われます。」
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