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旧丙種特殊索道 [スキー]

福島県の柳津温泉スキー場は今季閉鎖したようだ。もう復活はなさそう。
今季なくなったスキー場の一覧はどこかにないものかと思う。
柳津温泉スキー場を一昨年に制覇しておいて良かった。まさかなくなるとは思わなかった。

ついに日本で屈曲Jバーに乗ることは不可能になった。屈曲Tバーには、個人的には昨年末にスイスのアーデルボーデンで乗ったばかりだが。それはそれは、標高差が300mはあるは、30度以上の斜面は随所にあるはで、大変な長大索道だった。こういう面倒なものは避けて、普通はひたすら索道と斜面の制覇を進めるために、海外スキーでは「超高速」(たぶん秒速5~6m。日本には滅多にない速度)長大・多人数乗りの重量級リフトに優先して乗るのだが、その日はアーデルボーデンでも強風と大雪でほとんどの索道が運転を止めていて、選択肢がなかったのだ。一つの経験となった。

これで計算上、現存する国内の旧丙種特殊索道はほとんど一桁になったか。
残りの旧丙種は『鉄道要覧』と今年の運行情報を総合すると、

猿仏村営
興部町営
日の出
サホロの連絡リフト
知内町営
かもい岳国際第一(Tバー) (以上が北海道
酒田市松山
飯豊町手ノ子スキー場   (以上が山形県)
安比高原の第二シュレップ
第三Tバー

が残っているものと思われる。個人的には手ノ子とサホロしか乗ったことがない。

いま一番乗車が大変な鉄道は安比高原の第二シュレップリフトだろう。廃止されたかと思ったら、思い出したように記念日とかに運行している。実はTバーリフトさえ乗れたことがない。真の索道制覇はなかなか大変だ。1月12日がスキー記念日で、運行したらしい。

かもい岳なんて道内の中高生の競技スキーのメッカだから、事情を考えるとTバーの廃止はなさそうだ。
何故なら、道内トップクラスの競技スキー選手の都合があるから。彼らが貴重なチャンスを利用して、欧州のスキー場や夏期のNZコロネットピークの競技者隔離コースに遠征した際に、二人乗りTバーに上手く乗れなくて意気消沈して(いけいけドンドンの体育会系人間にありがちなことだが)調子を崩さないよう、日本国内でこっそりTバーの乗り方を練習する場を用意する必要があるから。
またどんな強風の天候と大会日程が重なっても、競技を実施してFISポイントを取得させるためかもしれない

A380をキャンセルするとは、スカイマークはどうなっているのか? [航空]

極めて久しぶりに更新します。
最近は個人的に長崎空港の延べ利用者数増大に貢献しているような。

閑話休題
スカイマークのA380騒動の議論にいくつか足りない点があると思う。LCCとの対抗だのといった話は現在の国内線事業の話で、新規事業のニューヨーク線が事業として成り立つかどうかと関係ない。
まあ57億円だったかの大幅赤字はかなり苦しい状況だとは思う。成田発着便の全廃が話題になっているが、ローカル線問題の話が出ているけど、まだ不採算であると推測されるのは石垣宮古関係と米子くらいだろう。

現金流出の原因はグリーンシートで超ゆったり配置のA330ではないか。シートコストは737ー800より20%くらい高いらしい。まあ737で同レベルの座席配置にした場合と比較すべきであって、A330の罪ではないが。
JALのクラスJの二匹目のドジョウを狙って、その快適性を売り物に客単価向上を狙ったのだろう。しかし一部のニッチなファン(どれだけ全国的に実在するのか???)を除いて、スカイマークと言えば、就航時の767の8列詰め込みシートだ。グリーンシート自体は客観的には広いが、広いことが絵にならないタイプの座席だ。JALがシェルフラットシートを一〇年前に登場させた時に、ヤンキースの松井(野球選手は巨体だ)を座席に座らせた写真を宣伝に使って、「うわ、狭い」という印象を持ったことを思い出す。
そもそも類例のない座席だ。何だかA320シリーズの様々なバージョンで、今はあまりない2-3配置の欧州内ビジネスクラスの席の型落ち品を再生産して、フランス流のぼわっとした昔風の厚みのあるモケット張り座席に仕立てたとしか思えない。あるいはA310シリーズ時代の一時代前の110cmピッチくらいのビジネスクラス座席の変形だろうか。
羽田~福岡線でA330就航便だけ満席になっていたり、高値で販売されている事実は存在しない。むしろ737から増えた座席を何とか売り切るために安売りしている印象がある。
詰め込み767の方が輸送力が多かったが、あの時代には福岡発のスターフライヤーも成田福岡のLCCもなかった。安さ第一の客はそっちに流出してしまった。

どうも追加支払いの8億円がエアバスに払えなかったのが縁の切れ目だったようだが、新規事業に将来性があれば、それくらいの金融はどうにかなるはず。
ビジネスクラス、プレミアムエコノミーだけの成田ニューヨーク線が昨今の情勢では成立しないからだろう。何しろANAが777300ERでダブルデイリー、JALもダブルデイリー、東部だと、今はJALのボストン線はあるし、シカゴにもANAがダブルデイリーだ。
恐らく日系の史上最大の東海岸体制であり、追加でスカイマークが入る余地はないだろう。日本人のビジネス需要は飽和している。アジア路線もないから、ANAのような乗り継ぎ需要も望めない。
しかもニューヨーク線は実は欧州線に比べて需要の延びしろが少ない。ワシントン線ほどでないが、個人客、観光客が少ない。10年ほど前は米系がマイル付きで往復込み30000円でもオフシーズンは席が埋まらないくらいだった。

恐らくスカイマークは最初に路線案に出ていたロンドンやフランクフルトのスロットが取れなかったか、未だ交渉途上なのだろう。民主党政権時代の置き土産で、今は日本とEUの間はオープンスカイだから、ANAが欧州に乗り入れたころのような政府交渉の苦労はないはずだが。
それでも上手くいかなかったのだから、スカイマークの渉外担当は国際航空のど素人か、西久保社長の気まぐれに振り回されているのか。

従って日系どうしの潰しあいのニューヨーク線しかスカイマークの選択に残らなかったということか。それさえ望み薄だ。

東急グループとスキー場、西武との比較 [スキー]

あけましておめでとうございます。
更新が停滞する当ブログを愛読くださり、ありがとうございます。

閑話休題
東急グループはどうしてスキー場経営の事実をことさらに隠そうとするのだろうか。
衰退事業を持っているということで、投資家から悪い印象を持たれたくないからとさえ思える。
一般に地元への配慮で黒子に徹すると言われるが、もはやそれでは解せないレベルである。ニセコにしろ白馬にしろ地元の運営会社が整理された際、わざわざ引き取って索道の経営統合を進めているのだから、侵略者として地元に嫌われているとは全く思えない。
苗場や雫石、志賀高原の焼額が西武=コクド=プリンスホテルなのは一目瞭然だが、東急は各スキー場の運営会社名もわかりにくい。一応、電鉄直営の別格の存在たる八方尾根・栂池・岩岳を例外として、東急リゾートサービスにスキー場の経営はほぼ一元化されている。なお、白馬の特別の扱いは、五島昇が白馬のスキー事業に格別の思いいれを持っていた名残が大きいらしい。
しかしながらスキー場名にも運営会社名(鉄道要覧の索道欄を見れば一目瞭然)にも「東急」のブランドを出さないのはほぼ徹底している。ニセコグランヒラフもタングラムもスキージャム勝山もなかなか東急系だと分からない。戸隠や富士見パノラマにも東急の息がかかっているとは知らなかった。
おまけに東急不動産系で共通リフト券があったりもしない。せいぜいシーズン券購入者に相互に優待があるくらいである。
不動産系の東急リゾートサービスが日本の大企業で唯一、スキー事業に本気を入れていることは確かである。その姿勢は社員として普通の企業で唯一、ワールドカップクラスのアルペンスキー選手(大越龍之介)を正社員として採用していることで明らかだ。建前としてのアマチュアスポーツ選手としての枠でも、ANAの福原愛や北島康介のような使い捨ての広告塔でなく、終身雇用の正社員としての採用することはスキー界にとって重要なことだ。
電鉄系の会社が正社員としてアルペンスキーの選手を採用するのは、60年前の長野電鉄スキー部の杉山進以来の椿事である。ナショナルチームの合宿や遠征の日程を思えば、常識的に言って現役時代は正社員としての勤務が出来るとは思えない。SAJ会長の堤義明でも遂にスキー部をコクドやプリンスホテルに作ることはなかった。アイスホッケーや野球と異なり、正社員として勤務することが難しいと考えたからだろう。
その代わりに、堤は個人的にアルペンのトップ選手の岡部哲也や木村公宣に対して生涯生活の面倒を見るとの確約をし(その事実はスキージャーナルなどでの引退後のインタビューに窺われる)、軽井沢プリンスホテルスキー場と富良野スキー場のスキースクールの権益を二人に与えた。
基礎スキーの世界にまで視野を広げれば、柏木親子(正義・義之)に苗場スキー場でのスクール経営を任せている。技術選で柏木に匹敵する立場を考えると、昨年一位の丸山貴雄は東急直営色が強い八方尾根スキースクールの看板であり、二位の吉岡大輔は東急のたんばらのスキースクール代表(チームクレブ所属というのは、実質は後援程度であろう)である。実は技術選における柏木義之と丸山、吉岡(ばんけいスキー場の井山敬介は関係ないが)は、西武グループと東急グループの代理戦争としての性格を結果的(関係者が意識しているかは定かではないが)に有している。

さて、東急グループは五島昇の死後、元の各社の番頭たちとその後継者たちがてんでバラバラに経営していると言われ、ホテル部門においても、東急ホテルズと東急ステイとハーヴェストクラブなどとの相互の連携、顧客の相互優遇は存在しない。
かつては海外ホテル部門としてシンガポールに本拠を置くパンパシフィックホテルチェーンを持っていたが、今はなき慶州やグアムの東急ホテル(1970年代にはソウル東急ホテルもあったが、短命に終わった事情は不明である)がそこに統合されることもなかった。謎だらけである。

こういうことを考えていたところで、昨年11月1日に白馬観光開発の売却が発表さた。長野県としては蜂の巣をつついたような大騒ぎだったようだ。ただし白馬東急ホテルは日本を代表する高級スキーリゾートホテル(同レベルの設備・格のホテルは奥志賀高原ホテル、グランフェニックス、赤倉観光ホテル、トマムのかつてのガレリアスイート、セゾン時代の狩勝コンチネンタルホテルくらいか)として切り離されることはなく、盤石の体制のようである。スキー場は儲からなくても通年のリゾート経営は成立するのだろう。

日本はなぜ五輪でふるわないか [海外事情]

(筆者個人はスポーツの成績を国民国家単位に評価すること自体に反対しています)

本章を書いている時点で、日本の金メダル獲得数は2個で、4個の北朝鮮どころか、ベラルーシやウクライナを下回る勢いである。銀銅を含めた総メダル獲得数で議論する向きもあるが、サッカーやテニスの世界ランキングか、一対一の対戦でない点でもっと厳密なアルペンスキーのワールドカップの年間王者(各種目のクリスタルトロフィーと、全体の大トロフィー)を選出するポイント計算法あたりを参着すべし。

要因としてはいくつかが考えられよう。
第一に言われるのは中国、韓国の国家的なメダリスト育成政策との格差である。アメリカのナショナルチーム強化策も指摘される。だが、これらは資本主義国に対する社会主義国の体制の優位を主張するためのソ連東欧諸国などのかつてのスポーツ政策の猿まねである。国家の資源を国際的に目立つものに集中投入するのはソ連の宇宙開発と同じである。東西ドイツ統一の折には「統一ドイツは五輪メダルで世界一となるだろう」という議論があったが、東ドイツがドーピングなどやりたい放題だった反動か、未だ達成されていない。
第二に、メダルの数を稼ぐにはサッカーやソフトボール、野球(もう公式競技から外れた)なんて団体競技はどうでもよくて、世界的な競技人口の割にメダル数が多く、科学的に選手育成が可能なマイナー競技のボートやセーリング、ウェイトリフティング、フェンシング、射撃、アーチェリー、馬術、自転車などに注力するという中国韓国北朝鮮、開催国のイギリス、ニュージーランド(ボート)の政策は天晴れである。日本の体育教育が小学校の段階から球技に偏っており、スポーツの素質ある選手がメジャー競技に埋没してしまうとの論ももっともである。

あまり指摘されない第三の面が重要だと思う。それは学校スポーツと企業スポーツによって支えられていた過去の日本のスポーツ体制の衰退である。
学校スポーツというのは建前としての平等社会のアメリカ流の発想であり、階級社会としての欧州には相容れない。欧州のサッカーなど、学校教育から締め出された下層階級の若者の憂さ晴らしの手段にすぎない。
だが日本のベルリンオリンピックあたりでの成功(今より遙かに競技数が少ない中でのメダル数は過小評価できない。リーフェンシュタールの記録映画にどれだけ日本人が露出していることか)は戦後に引き継がれる。
学校スポーツというと、甲子園のように打算ない高校生の純真さばかりが強調される。だが、それは日本の現実においては、企業丸抱えの終身雇用社会を背景とした企業スポーツとの関わりなしに殆どの競技は考えがたい。プロ野球は有名企業の広告塔だったし、都市対抗野球を目標としたアマチュア野球も無視できない。高卒でも大卒でも「運動部は就職に有利」との言説とのつながりで学校スポーツは力を持てた一面は否定できないだろう。
今や企業スポーツはどの会社もグローバル化を背景とした経営の合理化で風前の灯火である。もとより高卒の場合はスポーツ枠は終身枠でなく、選手引退は会社退職と同義であることも多かったが(ここは大卒スポーツのラグビーやサッカーの場合と違う。戦後経済の二重構造を象徴している)、それでも指導者、コーチなどの枠は馬鹿にならない。それがなくなりつつあるのだ。(サッカーにしても、プロ野球選手の再就職より難しい面がある。階級社会の欧州で育ったサッカーでは監督コーチに国際資格が要請されるため、多くの有名選手が指導者の道を歩むことを難しくさせている

どんな有力なスポーツ選手にも故障や体力の限界で引退の時は来る。その後の生活の保障が問題なのだ。メダル獲得について、
「報奨金を増枠せよ」
との議論がある。だが、そんなものは300万円が1000万円になったところで、正社員の生涯年収に比べれば微々たるものだ。オリンピックに出たクラスの選手でもマイナー競技では引退後に定職のない者など珍しくない。引退後の生活に保障のない状態で、果たして競技に純粋に打ち込めるものだろうか。
ここでアメリカの例を対照して考えてみよう。アメリカは学校スポーツの国家だが、新卒第一の終身雇用社会ではない。だから選手引退後でもいくらでも人生の巻き返しが可能である。新卒第一主義の日本では、企業スポーツが衰退すれば、たとえ大卒でも選手は正社員としての就職を諦めるか、大学卒業で競技を打ち切らざるをえない。
これらの蓄積はどう評価されるであろうか。

ツツミ時代のスキー場宣伝とアウトレット [交通]

今考えると、金沢ローカルでのコクドスキー場の広告量は凄かった。
1991年新設の北陸朝日の創業期にローカルのスポットCMは、冬期は半分近くコクドからみだったんじゃないのだろうか。だがその広告料は脆弱な平成新設局の経営の支えに使われ、久米宏・田原による自民党政権つぶしの番組の放送、珠洲原発計画打破のためのローカル番組に使われたとも言え、自民党各派閥と一体の堤義明の経営とちっとも方向が合致しなかったのだから、皮肉なものだ。
2000年代半ばの西武の経営改革で全く状況は変わり、CMは激減した。

その内容も注目すべきもので、妙高杉の原や焼額プリンスホテルとかメジャーなものと同レベルに、「かぐらみつまたマイカースキープラン」とか「ごりん高原スキーキャンプ」とかニッチなものが多かった。なぜか苗場プリンスホテルは相対的にあまり宣伝していなかった。
恐らく首都圏の大市場への宣伝・営業で足りない部分を北陸地域への拡販で何とかしようとしたのだろうか。
恐らく、費用対効果を考えると、コクドにとって北陸は極めて大きな市場だったのだろう。首都圏は市場も大きいが、広告代も高い。しかもスキーブームも過ぎつつある時期には、非スキー人口の多い首都圏に営業しても歩留まりは悪い。首都圏には全くのスキー・スノーボード初心者も多いが、雪国では学校の日帰りスキー遠足があるので、ボーゲンも出来ない若年層・中年層は稀である。つまりターゲットCMになるわけで、広告効果が高い。広告料が安いのも、限られた予算で宣伝せねばならぬ担当者には魅力的だったろう。

上信越道が出来る前から妙高あたりに行く北陸人は多かったし、雪が少なかった1990年代当時の石川富山のスキー場の積雪量・雪質は悲惨だったから、今より信越地域に行くモチベーションはあった。だいたい長野オリンピック前には上信越道は碓井軽井沢止まりだったし、道路アクセスに関しては石川・富山と首都圏でトントンか、渋滞がないぶん北陸からの方が有利だった(尤も、1990年代には、白馬から糸魚川まで渋滞ということもあったらしい)。
そもそも1997年までは碓氷峠経由の特急「白山」が運転されていたので、電車でも金沢から妙高、長野、軽井沢は乗り換えなしで行けたし、乗り継ぎの悪い現状よりも所要時間は早かった。
上信越道が東京からは長野市あたりにつながったが上越に抜けられない長野オリンピック前後は微妙だが、1999年の上信越道全通で再び北陸優位の状況が生まれる。だがその時期にはコクドも落ち目である。

(追記)
最近では軽井沢ショッピングプラザのCMがローカル枠で流れまくっている。だいたいアウトレットモールの客というのは大都市より地方が多いらしい。実はそれほど都心の正規店舗より安いわけでもないし、アウトレット専用品も多い。都会の人間にはそれほどアウトレットに用ががないのだ。だいたいクルマ社会を前提にした業態である。アクセスの送迎バスなどもあるが、来場者の中に占める割合は決して自家用車と半々ではない。
高速1000円末期には御殿場プレミアムアウトレットの駐車場は中京ナンバーで埋め尽くされていた。

(4月1日)関西電力出資で北陸新幹線小浜ルートがルート決定、着工へ  [鉄道]

前田武志国土交通大臣は4月1日、新スキームでの北陸新幹線の全線着工計画を発表した。整備新幹線の新規着工決定は昨年の金沢・敦賀間に次ぐものとなった。ルートは小浜・亀岡を経由して新大阪に直結する小浜ルート案に決定しつつも、米原ルートも放棄されることはなく、ほどなく建設される計画である。

以前から北陸新幹線の敦賀以南のルートは米原ルート、湖西ルート(含む湖西線フリーゲージトレイン案)、若狭ルート案の三案に分かれ、整備新幹線の中で唯一、ルートが決まっていなかった。東海道新幹線のバイパスとしては若狭案が最も優れ、地域開発に貢献する度合いも大きいが、新線の距離の長さに伴う建設費の大きさが、北陸から中京東海地域へのアクセスに難がある点と並んで課題となっていた。
前田大臣の前任の大畠大臣は東日本大震災の教訓として、大震災発生時の国土の代替バイパスルートの建設促進を表明し、旧建設省技官出身の前田氏もその方針を踏襲する模様だ。東南海・南海地震発生時に従来の東海道新幹線は使用不可能となることは明白であり、北陸新幹線のルート選択においても、当該地震の影響の大きい米原ルートは回避された模様だ。

今回のスキームの最大のポイントが、沿線に原発を保有する電力会社が建設費の過半の5000億円を支出し、当該区間の線路を並行在来線と共に保有する第三セクターの大株主となる点にある。議決権を持つ普通株と持たない優先株、転換社債の比率については、今後の検討課題とした。
関西電力の出資分が最も多く3000億円、中部電力が1000億円、北陸電力と電源開発が500億円ずつを支出する計画だ。現在、関西電力は原発の再稼働を行なわない場合、火力発電の燃料費で年間約2000億円の追加支出を余儀なくされているが、大きな負担となっている。今回の資金を支出しても、原発を動かせない場合のコストに比べれば安いものなのだ。
鉄道アナリストの川島令三氏はこう指摘する。
「以前から関西電力は福井県に対して原発立地の見返りとして、小浜線の電化や県内の老朽化した交直流車両の代替車両の費用を負担するなどことをしてきました。今回の決定には驚きません。」
福井県内の原発再稼働の条件として福井県・滋賀県・京都府知事と綿密が打ち合わせが行なわれた結果と見られる。
関西電力の原発再稼働に反対してきた大阪維新の会は今回の決定を歓迎する構えだ。松井一郎大阪府知事はこう語る。
「従来、北陸地方は東京より関西と大きな地域的つながりを持ってきたが、東京一極集中の影響で、そのつながりは細ってしまっている。再来年度に北陸新幹線が金沢まで通じれば、金沢からの東京と大阪の時間距離が同じ二時間半になってしまう。大阪の地位低下は進む。」

政界事情通の間では、今回の決定を民主自民の大連立の動きの一貫と見る。
「福井県は前回の総選挙で高知県と並んで唯一、小選挙区で自民党が全勝した県です。そこに何とかして民主党も食い込みたい。その動きは昨年の敦賀着工決定にも見られましたが、今回で露骨になりました。今回のルートの沿線には、京都北部の自民党の谷垣総裁の選挙区も含まれますし、京都市を地盤とする民主党の前原政調会長との間で何らかの意見に一致が得られたのでしょう。」

民主党議員の政党遍歴パターン [政治]

しばしば民主党に対して、自民党関係者・支持者から
「民主党は寄せ集めの党」
「政界渡り鳥だらけ」
という、罵倒に近い評価が下されていることがある。また
「社会党出身者が勢力を持っていることが最大の癌」
という評価も2ちゃんねるあたりでは常識化している。
 だが、これらの評価は妥当なのだろうか。
 そもそも、自民党のように確固とした政党が不変に存在していたなら、そこから出たり入ったりした人間がマイナス評価を受けるのは当然である。例えば石破茂や茂木、小池百合子あたりである。だが、政治生活の根拠地と思っていた政党が新進党や自由党のように突然なくなったり、新党さきがけや社民党(第一次橋本内閣で連立を組んでいた1996年初頭に政党名を変更した)のように、1996年の総選挙を前にして結成された旧民主党に多くの議員が離党して詰めかけてしまい、抜け殻のようになった元の党に残ることが諸事情から困難となり、大勢の赴くところに従ったものまで、節操のない政界渡り鳥と言えるだろうか。
 また、派閥化しつつある諸グループに属する民主党の諸議員の政治行動の原理の観察を困難にしている最大の理由の一つとして、「本籍と現住所」の問題がある。いわゆる横路グループ(今の領袖は、衆議院議長として党派的行動の取れない横路孝弘ではなく、輿石東だろうが、なぜか輿石グループとは言わない)は旧社会党、民社協会は旧民社党などと、過去の政党歴(本籍)と現在の派閥(現住所)が一致している場合は良いが、1990年代の政界再編前後から当選回数を重ねた大臣クラスのけっこう有力な議員ほど、履歴から予想される今の所属派閥が意外なのだ。
例えばキャミソール事件で短命大臣に終わった荒井聡は農水省官僚出身で北海道庁に出向して横路知事の側近だったはずだが、1993年の選挙後に日本新党に所属して、2aで後述の政治履歴を経て、横路グループではなく菅グループの幹部である。大畠前国土交通大臣(その前に3ヶ月だけ経済産業大臣もしている)は土井たか子ブームで1990年の総選挙で大躍進した社会党から大量に初当選した土井チルドレンの一人である。民主党結成以来、鳩山グループの幹部となり、鳩山の首相在任中は派閥の留守を預かって会長まで務めたが、菅降ろしのゴタゴタの中で鳩山に愛想をつかして鹿野グループの結成にはせ参じた。仙石由人も1990年初当選の社会党新人だったが、なぜか民主党では前原グループの顧問格ないし、蔭の支配者となっている。
 以上のような問題を整理するためには、党内の大勢を占める側から順に、政党履歴をグループ分けすることが有意であろうと考える。もちろんこれは各政治家の行動を道義的に価値判断するものではない。そういう判断をする時の基礎情報を提供するためである。ウィキペディアの各項目や政治家自らが説明する履歴を読めば、分かる人は分かるのだが、1990年代の政党変遷を正確に理解していないことには、読解困難な書き方も多い。そもそも一般人にとって1990年代の政界再編期は忘れられたほとんど謎の存在である。

○村山・橋本内閣で与党
(1) 旧社会党→旧民主党→現在
 社会党の1990年初当選組はこのパターンである。多くは今も社会党時代の結びつきを保って横路グループに属するが、先述の大畠や筒井信孝農水副大臣、斉藤勁官房副長官ら現住所はそうでないものもいる。現在の領袖である輿石の他、社会党の「お粗末書記長」、鳩山内閣の「お粗末農水大臣」たる赤松、同和・福岡空港利権の松本龍(環境大臣としては有能だったらしい)、「死の街」「放射能をつけてやる」の鉢路前経済産業大臣、反日国家公安委員長と言われて4ヶ月で大臣を辞めた岡崎トミ子、前述の人物らが属する。こう書くと、確かにネット右翼が攻撃する理由が分かってしまう。そこまで非難すべきとも思えないが。
民主党では本来は人数で圧倒的に最大勢力だったのだが、党の主要ポストは新党さきがけ組に野党時代から取られ、社会党時代からの議員が次々に引退していくなか、それほど現在の勢力は大きくない。
 注意しなければならないのは、領袖の横路自身は村山内閣の段階に於いては与党の立場でなかったということである。1969年に社会党のプリンスとして28歳で初当選したが、1983年から95年まで北海道知事を務め、旧民主党結党の中心となって1996年に衆議院に返り咲くまで一年ほど浪人期間(これは2期目を落選して1993年から96年まで浪人していた仙石も事情が似ている)がある。若き「革新知事」(今や死語)として当選しながらも、道民党を主張したのは政略であり、一貫して自民党抜きの政権交代を追究し、自民党を政権の座に引き戻した自社さ連立のあり方を批判した。中央政界で浦島太郎だとして、当時のいしいひさいちの政界マンガでは徹底的に諷刺の対象となっている。
横路は中央政界復帰に当たって知事の後継者としては、新進党後援で側近の副知事の堀達也を立て、村山内閣の自社さ連立を象徴する存在として立候補した1990年社会党初当選組の伊東秀子(2007年の参議院比例区の繰り上げ名簿に掲載されており、現在は国民新党に属する)と争った。この時は横路後継阻止のために自社さ側から鳩山由紀夫を知事候補に擁立する動きもあり、極めてねじれた選挙戦であった。

(2) (自民党→)新党さきがけ→旧民主党→現在
 自民党を批判して離党したが、当時の小沢のような新自由主義の路線ではなく憲法・平和重視の小日本主義の立場をとった武村正義「ムーミンパパ」に従った人たちだ。細川内閣で与党となり、羽田内閣のゴタゴタで小沢らについて行けなくなって袂を分かち、自民党と社会党連立の村山内閣では政権の接着剤となった。政界再編の時期に社会党と並んで、最も長く政権につき続け、よくも悪くもその間に権力の味と実態を目にあたりにしたグループである。鳩山由紀夫が代表的存在だが、玄葉光一郎外務大臣以外(無所属で当選後、1993年12月に入党)、それほど純粋組は今に残っていない。実は次の派生型が現在では政権で有力である。
(2a)日本新党→新党さきがけ→旧民主党→現在
 1993年の衆議院総選挙で細川護煕をしたって日本新党で初当選した議員の多くが、今は与野党で重要な地位に就いているが、実は細川内閣の途中で細川から武村に宗旨代えした議員は多いのである。先の荒井の他、前原も枝野も小沢鋭仁元環境大臣、五十嵐文彦財務副大臣もそうである。その結果、村山内閣でも新進党に行って野党になることなく与党生活を満喫できたのであるから、原理原則のないご都合主義者として非難されそうなものだ。が、現実はそうでもない。やはり政治とは理想や倫理でなく現実のものであり、政治家は不確かな理想論より、ただ長くしっかり権力にしがみついた方が、より良い経験ができて将来に生きるのだろう。
(2b)社民連→新党さきがけ→旧民主党→現在
 実は菅直人前首相一人である。一つ前のグループに似た政治行動だが、その結果、市民運動、弱小政党出身ながら、自民党の若きエリート並の出世速度(若く初当選し、それから十数年の40歳代で大臣になるパターン)で第一次橋本内閣の厚生大臣の地位を、50歳を前にして射止めたわけだ。その結果、以前から政界では玄人受けする存在ではあったが、政界再編期には地味な存在にすぎなかったものが、薬害エイズ事件で一躍国民的英雄になれた。その知名度を生かして。旧民主党で結党当初から鳩山と並んで二人代表の地位を占め、大同団結による1998年の現民主党の結成後に野党第一党の代表の地位を手にしたのである。近く首相になることは、この時点で十分される事態であった。
実はすさまじい権謀術数の持ち主であることを象徴する履歴である。社民連を94年初めに解党した際に、実は党のオーナーだが新進党に行った江田五月と袂を分かっているのに、いつの間にか元の仲間に戻って10年経つのも謎である。
(2c)民社党→新進党→新党さきがけ→旧民主党→現在
 1990年に初当選以来、7回連続当選を続ける小平忠正だけである。なぜか1990年組では大臣になりそびれ、両院議員総会長や中央選挙管理委員長など党の傍系ポストを歴任し続ける不思議な存在である。途中の一匹狼的行動により、第一次橋本内閣で政務次官の地位を得たことがマイナスに影響しているようである。

○ 村山・橋本内閣で野党
(3) (自民党→)新生党・日本新党など→新進党→(国民の声・フロムファイブなど)→民政党→現在
 自民党にいた履歴があるかは初当選時期によるが、政治信条的に保守よりということである。渡辺恒三以下、岡田克也、野田首相、藤村官房長官らの履歴である。野田首相は1996年の総選挙で落選しているので、それから4年間の浪人中の政治行動の評価が難しい。実は鹿野道彦農水大臣は自民党時代から「清和会の若きプリンス」だったが、細川内閣の当初からはせ参じたわけではない。後に三重県知事からマニフェスト提唱者として大学教授の地位におさまった北川正恭にかつがれて、細川内閣の途中で自民党を離党したのである。新進党解党で混乱する中、「国民の声」で代表となったが、その後10年以上も雌伏の時を過ごした理由がその辺りに潜んでいそうだ。
(3a)社民連→日本新党→新進党→(いろいろ)→現在
 江田五月だけの特異な履歴である。なぜ94年初めに社民連を解散した際に菅直人と行動を共にしなかったかについては分からない。以前からの菅との意見の相違も理由にあったようだが、小政党の社民連に一つ閣僚ポストを割り振って細川内閣で科学技術庁長官として初入閣させてくれた細川首相や小沢ら保守系の恩義に江田が報いたとする説が有力である。新進党解党のゴタゴタ期を岡山県知事選への出馬と落選で浪人、1983年以来の参議院への復帰という過程で過ごしたので、その時期の身の処し方についてはアンビバレントな存在でいられたようである。

(4)民社党→新進党→新党友愛→現在
 このグループは民社協会を維持して今も堅い結束を誇り、1983年初当選で年長ながら3回落選した不遇な田中慶秋を会長として、民社党の元書記長だった中野寛成元国家公安委員長や直嶋正行元経済産業大臣、川端文部科学大臣、城島国対委員長らを擁する。だが、中井「はまぐり」や小平忠正ら脱落者もいる。

(5)自民党→新生党→新進党→太陽党→民政党→現在
 羽田元首相に従い、いち早く1996年の総選挙前に小沢が専横する新進党を離れつつも、自社さ連立の側には戻らずに、野党として太陽党を結成した人たちである。北沢俊美元防衛大臣、前田武志国土交通大臣らがそうである。羽田の側近たちであり、竹下派七奉行の一人で民主党結党まもなく1998年に死んだ奥田敬和も同期当選の仲間の羽田に従った。

(6)(自民党→)新生党→新進党→自由党→現在
 小沢一郎に忠実に従った者がたどったコースであり、先ほど急死した参議院議長の西岡武夫や、最高顧問の藤井裕久、山田正彦前農水大臣らが代表的存在である。ここから脱落した有力者は多く、小渕内閣の自自連立が崩壊した際に野田毅や扇千景らは与党に残るために保守党を作り、やがて自民党に復帰した。藤井も山田も今は小沢の元を完全に離れている。最後まで残った有力者が、実は小沢より初当選が6年も早い(が、二回の浪人生活で議員在籍期間はほぼ同じ)兄貴分の西岡武夫だけであった。
(6a)民社党・公明党→新進党→自由党→現在
 拉致問題で話題になる中井「はまぐり」元国家公安委員長らが属する。新進党解党時に新生党時代の仲間でないのに小沢に従ったやや傍系コースである。

(7)社会党・日本新党など→市民リーグなど→旧民主党→現在
 細川内閣では与党の立場にありながら、村山内閣では自社さと組まなかったが、といって巨大野党の新進党にも加わらなかったグループである。代表的存在は先述の横路孝弘だが、当時に現職の議員だった人たちだと、実は海江田万里前経済産業大臣も市民リーグ代表であり、浪人中の仙石と連合して地域政党のネットワークを作り、旧民主党結成の中心的存在であった。

1970年代の交通事情について [交通]

1970年代の交通事情を語るのは、いささか困難である。
というのは、交通インフラの点で、現代に非常に近い面もある反面で、ソフト面(グリーン車利用規程など別に論じたい)など現代と異なる点について想像力を働かせることが難しい程度には昔であるという半端な性格を持っているからだ。
東京や大阪起点に見ると、現代より遅れている面ばかり目につくが、地方対地方だと意外な面も気がつく。

国鉄なら長距離は動力近代化以前の蒸気列車ばかりの時代でもない。1968年にはいわゆるヨンサントウ改正で在来線で最高速度120キロ運転が始まっており、1972年には岡山まで山陽新幹線も開通し、1975年には博多まで全通する。

高速道路も意外と開通している。首都高速も阪神高速も都心部は出来ているし、第三京浜も開通している。名神高速に次いで、大阪万博をめがけて東名高速が1969年に既に全通しているし、1970年代半ばまでに東北道も盛岡あたりまでは通じる(全通は1980年代半ばだが)。
地元だと、北陸自動車道は地域内で孤立した存在だが、1972年に小松空港へのアクセス道路として金沢西~小松ICが開通したのを皮切りに、三県相互の道路網は接続する国道バイパスなども含めて1970年代半ばには完成している。当時の高速道路で片側一車線の暫定開通は例外的なもの(中央道に例はあった)だったので、いきなり片側二車線の単独有料道路が出来たわけだ。

航空もけっこう現在に近い。
福岡、大阪、羽田、札幌を結ぶいわゆる幹線は1960年代半ばまでにジェット化が完了している。それ以外のローカル線はプロペラ便(YS11)が目につき、便数も一日数便の殿様ダイヤ(私の造語、普通の人の日帰りの用事などに使いづらい昼間の半端な時間に一往復か二往復程度飛ぶだけで、出迎えが接待が行き先でつくような偉い人が悠然と泊まりででかけるためのような当時のローカル線のダイヤ)で実用性に乏しい路線も多いが、鹿児島・熊本・宮崎・長崎・松山・小松・仙台・三沢・函館などの先進的な空港からジェット化は進展している。
以前にも書いたことがあるが、1970年代初めの羽田~伊丹便は今以上に栄えている。便数は一日40往復を超えるだけでなく、深夜便も飛ぶだけでなく、今は伊丹に飛行機が発着できない午後10時ころまで便が設定されている。伊丹空港に意味不明のエアバス(ワイドボディー機)規制があったために、JALは中古機まで海外から買いあさってDC8-61を国内幹線に集中投入していた。国内線仕様で定員230人以上と、ナローボディー最大の輸送力があったが、既にメーカー生産が終わっていたための措置だった。

また地元の話に戻る。
親の話を聞いてみると、1970年代後半には今以上に小松~福岡、千歳のジェット便の利用価値が高かったようだ。金沢から岩国に移動する最も時間的に最適な手段が、福岡に飛行機で飛んでから新幹線で新岩国に引き返すことだったというのも意外だ。雷鳥の所要時間が遅く、「ひかり」の1時間1本の速達便が混雑などで使いにくく、山陽新幹線も実質的にはけっこう時間のかかる乗り物だったからということのようだ。
むしろ夜間駐機もなく、便数(3便)と輸送力(747SR就航と夜間駐機は1980年以降から)が限られた羽田便が使いにくかった。ボーイング727からトライスターに代わっても搭乗率は9割を超えていたという(当時の『北国新聞』の特集記事)から、実際には急な用事には使いにくかったろう。


にもかかわらず、様々な理由で、もっと交通は東海道新幹線や名神高速など進んだものが部分的にあっても、全体では前近代的で不便だったという印象が世間では一般的のようだ。

誤解の生ずる理由は様々である。
まず現代のようなインターネットですぐ乗り継ぎや運賃などを調べられる情報化時代ではないということを念頭に置く必要がある。だから人々の情報格差は大きく、頻繁な出張客が飛行機を重用していたといって、家族客などに航空機が一般化していたとは言えないからである。まだ飛行機は高値の花と思っている人も多かったし、周遊券など移動に急行列車を利用すれば圧倒的に安く、今の青春18きっぷよりずっと実用的な旅行手段だった。
道路の情報もそうである。カーナビもないし、当時の道路地図など、観光にはかろうじて使えても、行き先の市街地の移動に使うには無理な水準である。
当時はけっこう自家用車も想像以上に多用されている。1970年代半ばの大分大学では自宅生の多くは自動車通学だったとか。20代男性の運転免許所得率は今以上だ。一方で、社会に遍在しているとは言えない微妙さがある。1970年の新年号から連載が始まった「ドラえもん」では、東京郊外に住む野比家や剛田家に自家用車がないことにさほど不自然さはない。

さらに問題は1970年代に出張などで長距離移動を繰り返していた層は60代以上(当時で20代の若造が遠出を繰り返していた事例は少ないだろうから、70代以上と言ってもいい)でもう引退世代である。社会的に発言力がなくなっているし、ネットへの親和性は乏しい。
「大阪~神戸の国道43号線は片側5車線の世界有数の都市間道路だった」
「名古屋~岐阜の名岐国道は盛り土、側道を備えた、今で言う準高規格道路で、信号もキロ単位だった」
「電車急行にもビュッフェがあり、寿司やそば程度は食べられた」
「昭和51年の国鉄値上げは強烈で、グリーン料金は今より高い設定になった」
「国鉄の値上げが続いたら、飛行機の普通往復運賃と逆転した」
といった基礎的な事実さえ、あまりネットでも書籍でも語られることが少ない。

この時代を舞台としたドラマなどを見ると、けっこうトンチンカンな時代描写が目についたりする。木造客車(じつは半鋼製)の夜行列車の窮屈なボックスシートで移動していたりするのは序の口だ。『華麗なる一族』のドラマでの神戸市街の描写などが典型だ。まるで戦前だと叩かれたものだ。原作だと次男の銀平が自分用の車のマーキュリーを運転して阪神高速を走って、デートしたりしているし、最初の映画版だと頭取専用車のベンツSクラスが開通間もない神戸大橋(ポートアイランドの埋め立て自体はまだ途上)をかすめて、銀行本店に到着していたりする。

学者の夏休み [海外事情]

都留重人とか鶴見俊輔とかのエッセイや(ハーバード関係者の偏りはあろうが)、あるいは皇太子のイギリス留学回想録とか、あるいはエール大学の朝河貫一関係の史料を読むと、日本の大学研究者にとって意外な事実が分かる。
それは、向こうの学者は夏休みには専門の研究をしない(してはいけない)期間なのだ。
数ヶ月の休みの間、全くの休暇として過ごし、専門の研究には手をつけないということである。
先の二氏が当時でもずば抜けた優秀な留学生であったことは確か(都留重人は首席に近い「大優等」(ラテン語)で表彰されているし、鶴見俊輔も日米開戦で抑留された不利を含めて10代で哲学科を卒業しており、そのまま大学院に残れば22歳で博士号が取れる計算だった)だが、戦前の留学生という言葉から想像するようなガリ勉の様子からはかけ離れた日々だったようだ。長期休暇には必ず太平洋を船で何度も日本に帰って来るし、数年間の修行の日々のようなイメージではない。
オックスフォードに留学して、イギリスの内陸水上交通を研究して修士論文として皇太子(当時は浩宮)は休暇は欧州大陸の各王室の離宮とかを訪ね歩く日々だったと書いているし、朝河貫一も(死ぬまで大学の教員寮に住んでいて、夏休みは居住できなかったのかもしれないが)アメリカ国内の保養地や欧州旅行をしている(ヒゲの寛仁親王に至っては、はっきり「イギリス留学は勉強のためでなくて、欧米社会との社交と場慣れのためだと主張している」)。
戦前の学者でも、中田薫とか三上参次あたりは大学の研究室でしか専門の研究、論文執筆はしなかったようだし、1940年体制ではないが、意外とこの辺りが国際標準かもしれない。

恐らく普通の日本人が持つ留学生のガリ勉のイメージは三者によって規定されていると思う。一つはロンドンの下宿に引きこもりで精神病になった夏目漱石のイメージである。実際には漱石の留学仲間は潤沢な留学費を国費で支給されて優雅な社交生活を送っているのだが、チビのコンプレックスがあった漱石は引きこもって、多額の留学費を全て本代に使ってしまっただけなのだが。
もう一つは1ドル360円時代に経済的に困窮して苦しい留学生活を送った戦後直ぐの留学生の体験である。日経の『私の履歴書』あたりを読むと、周りの学生が遊びに行ったり、帰省したりするのに、自分だけは帰国費用もなく夏休みに居場所がなくて、アメリカ人の同級生の家に一夏身を寄せたなどという話は多い。この辺りの人たちは現在も日本の政財界や学界で指導的な地位にあることが多く、その影響は大きかろう。
最後は単なるモラトリアム(ないし経歴偽装)のための語学留学で海外で勉強もせずに遊びまくる人間へのアンチテーゼとして、現地にありもしない(欧米「市民社会」のようなものか)勉学像を説教のために作ってしまった可能性がある。また、企業や官庁が公費で若い社員を留学させることは今でも多いが、

まあ戦前から夏休みに学者が別荘や温泉などに籠もって本を書くというのはあったようだが、当人の学問の精髄というよりは、小遣い稼ぎか売名のための啓蒙書や長めの雑誌原稿というものが多い(そもそも戦前の学者は高等官試験対策の法律学の本を除くと、講義以外に専門の著書を書くことは稀だった。専門によっては、書けば学士院賞ものだった。)。まあ一夏くらいで著しく進展するような学問なら、それは大したことがないだろう。

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子供のころに考えていた勘違い その1 [政治]

個人情報保護が問題になるまで、長者番付こと高額納税者のマスコミ発表というものがあった。

小学生中学年くらいまで、私はこれについてとんでもない勘違いをしていた。
すなわち税金というのは所得の額によって決まっているのではなくて、希望するだけいくらでも国庫に納められると思っていたのだ。せいぜい所得に応じた最低率が決まっていて、それ以下だと脱税で処分されるだけだろうとも。
だから全国の長者名簿に載るために、世の中のお金持ちは競って出来るだけたくさん税金を納めようと毎年がんばっていると、推測していた。けっこう上位になった人たちは
「たくさん税金を納めるのは大変だが、まあ世の中のためになることで役立ってうれしい」
というような風にマスコミに(まあ今から考えると模範解答として)答えていたので、まんざら間違いでもないと思ったのだ。
類推の材料として、神社や寺への寄付を想像していた。高々と自分の名前を書くために、義務もないのに何百万円も寄付するお金持ちがいるのだから、国税たるやすごいものだろう。

さらに飛んでもない勘違いもしていた。リクルート事件とかゼネコン汚職が話題になっていたから、政治献金についても誤解していた。
あれは税金の一種であって、政治家が支援者からお金を取りまとめて、義務とされる税目とは別に自主的に税金を払うものであって、沢山の金を集めた政治家が大蔵省から評価されて、政界の重要ポストに就けるから、政治家は自分の地位を高めるために政治献金に努める、たまに政治家が逮捕されるのは献金をくすねるかちゃんと報告しないからだと思っていた。あと納税組合などは税務署からキャッシュバックがあるのだから、きっと政治献金の場合は手数料として手元に残る分がけっこうあるのだろうとも。
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